親父超え。

今年の今日、六月二十八日は、誕生日以上に強く意識してた日だった。

父橋本四郎は、58歳と9日でその生涯を終えた。
ワシにとって、今日こそが、その58歳と9日目にあたる。
時刻までは定かではないが、今日、もしくは昨日か明日には、
親父の生涯を超える時間を生きることになる。

体重以外、なにひとつ超えることはできなかったが、
せめて人生の長さだけは、超えられそうだ。
何か、ひとつ役目を果したような気分になっている。

以前も書いたが、親父は萬葉集の学者であった。
職業としては大学の先生なのだが、
週のうち、半分弱は、家で研究活動をしていた。
母親が高校の先生で月〜土で働いていたため、
ワシは、親父が家にいるのが基本、という環境で育った。
保育所への送り迎えも親父、学校の児童参観も親父。
小学校に入ってやっと、他所の家との違いに気づいた。
当時は、共働きなど少なくて、参観日に父親が来るなど、
うち以外は、まずなかったので、
参観日が恥ずかしくてたまらなかったことを覚えている。
しかし、親父はそんなことどこ吹く風、
ニコニコ嬉しそうにお母さん方に混じって、授業を観ていた。
ワシ以上に、マイペースな人だったのだと思う。

一緒にいる時間も長いので、当然影響を強く受けて、
ワシは、古墳巡りと寺社めぐりの大好きな、
ちょっと風変わりな小学生に育って行った。
そのことに多少の抵抗もあったが、
ワシは親父の卒業した大学の同じ学部に進学し、
親父の後輩になった。

親父が倒れたのは、ワシが大学5年生の時。
何となく「学者になるもの」と思っていたのだが、
卒業論文を書き上げて、「こんなこと一生やるのは嫌だ」と
大学院進学を取りやめて、就職浪人にならないため、留年を決めて、
就職活動を始めた6月だった。
高校に初めて長期休暇を申し出て、親父につきっきりになったおかんを
休ませるため、ときどき親父の看病で病室に泊まった。
当時のことなので、親父には告知してなかったが、病名は喉頭リンパ癌で、
2ヶ月足らずの闘病の末、呆気なく逝ってしまった。
逝った日は、のちのち就職することになる会社の面接予定日だったのだが、
そういう事情で面接日を後日に変更してもらった。
その面接の日も、まだショックから立ち直ってなかったのに、
よく入れてもらえたものだと思う。

いつも、同じように考えて、答えの出ない問いかけをして、
同じように結論づけることがある。
親父の人生の最後、逝く半年くらい前に、息子が、同じ道を進まない、
と知ったときの親父の心境だ。
やっぱりショックだったのだろうか。
口には出さなかったけど、学者の道に進んで欲しいと思っていたのだろうか。
ワシは、親父の人生の最後、親父を落胆させたまま、逝かせてしまったのだろうか。
永遠に分かるわけもない問い。
だけど、きっと学者の道に進んでても、どこかで違和感を覚えて、
ドロップアウトしてたことだと思う。
そう思うと、親父が逝く前に、ワシの人生の方向を少しでも教えられたのは、
良かったことなのではないか、と思うようにしている。
そして、そんな問いが、それから20年ほど経ったとき、
仕事のモチーフにもなった。

主人公は炭鉱技師の設定だが、ここで使っている言葉は、
すべて、ワシの親父を思って出てきた言葉であった。

そして、親父の死後、生前は会ったことなかった、親父の知り合いや同僚に
親父の話を聞く機会ができた。
子供時代、親父の機転に助けられた話、学生時代、山が好きで、
夜、星を観ながら、山頂で大声で歌った話、同僚と馬鹿をやった話。
親父の家は戦前の農地改革以前は素封家で、子供一人につき、
一人、お手伝いの方がいたらしく、当時親父付きのお婆さんがまだご健在で、
四十九日の法要の時だったか、当時痩せていたワシの手を握り締め、
「四郎ちゃんそっくり」と泣かれたのは、嬉しかったけど、
どうすればいいかわからなくて、ずっと俯いていた。
そんなこともあって、親父の人生そのものに興味が湧き、
母、姉、弟と協力して、親父の幼なじみから学校の同級生、
職場の同僚、もちろん親戚一同にも協力を仰ぎ、
親父の追悼文集を発行した。

これが、ワシの人生初の人目に触れる出版物の発行になった。
この文中に貼った写真も、その文集から転載したものだ。

そろそろ、親父の逝った年齢を意識し始めた一昨年、ワシは癌を患った。
その時お世話になった病院はたまたま親父と縁のある病院だった。
親父も母親も現役の先生だったので、親父が逝った時たくさん香典を頂いたのだが、
その香典、親父の遺志を慮り、大阪府の成人病センターに寄付させて頂いたのだが、
ワシが入院した病院は、その成人病センターの流れを組む国際がんセンターだったのだ。
何か、親父が見守ってくれてるような気がして、
安心して病院にお世話になった。
結果、手術もうまくいき、現在、病前とほぼ変わらない生活を送れている。

親父とワシの共通点は、あまり見当たらないが、唯一、親父も相当酒好きだった。

会社員時代、親父の教え子だった女性と偶然出会うが、その方から
「お父様、飲みすぎて、気がついたら、四国に向かうフェリーに乗ったらしく、
到着先から慌てて戻って、ギリギリ授業に間に合ったって
仰ってたことがあったわ」と聞かされた。
家族も全然知らなかったことだった。
多少は、盛ってるのかもしれないが、酔っぱらいエピソードも
ワシとは桁違いで、その面でも追いつけてない気がするが、
そこだけは、追いつきたくない、と思っている。

亡くなったあとも、いろいろワシの人生の手助けになってくれてる親父である。
今からは、親父の体験できなかった時間を過ごすことになる。
ある意味、おまけだと思っている。
そう思って、できるだけ好きなように生きていきたいと思う。

いつか、向こうに行った時、親父はワシより年下の姿で現れるのかもしれない。
そのときに、(酔っぱらい話以外で)親父のびっくりするようなエピソードを
積み重ねる時間が始まったのだと思うようにしよう。

おとん、いろいろありがとう。
これからも、よろしくね。
いつか、また会える日まで。

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親父超え。” に対して2件のコメントがあります。

  1. ほしごい より:

    《二階堂》のCMはどれも印象的で大好きなのですが、
    中でもこのバージョンはよく覚えています。
    若くして亡くなった祖父は九州で炭鉱を経営していました。その突然の死で訪れた騒乱と貧困で祖父の写真は一枚も遺っておらず私にとって「いつも背中」の存在でした。炭鉱跡を背景にスックと立つ男性に何か慕わしい思いを持ったものです。
    親は亡くなってもずっと思いは付き纏いますね。私には母になりますが「この歳の母は〇〇だった」「母は何をしていただろう」とかよく思います。温かい思いやその時分からなかった自分の愚かさを噛み締める事もあります。
    看護婦として懸命に働きながら難病で苦しんだ晩年を思い返すのは辛いですがそれさえも母のメッセージだと思えるようになりました。
    ひねもす様の術後が順調との事、良かったです。
    これからも楽しみにしております。

    1. hashimoto より:

      ほしごいさま

      ありがとうございます。
      ワシは、接点は多かったので、親父を思い出す時、背中で思い出すより、
      顔で思い出すことの方が多いのですが、
      会話してるうちに、いつしか背中に語り変えてる気分になります。
      この思いは、きっとワシが死ぬまで続くだろうし、
      それがワシにとっての原動力になっていく気がします。

      親や、祖父、祖母など、自分に繋がる人たちの人生を、
      忘れず、背負って生きていくのが、ワシには自然な気もしています。

      コメントありがとうございます。
      これからも、よろしくお願いします。

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