疑いのないところに、信仰はない。
橋の下世界音楽祭に遠征してたり、
その後の体調不良で、寝込んでたりで、
しばらく、体調のこと以外、
ブログ更新できてませんでしたが、
ようやく体調が持ち直してきたので、
溜まってること、吐き出していきます。
まだ体調万全ではないので、
どんなペースになるか分かりませんが、よろしくお願いします。
ワシの貧弱な海馬が覚えてるうちに、
全部、吐き出せたら、ええんですが。
まずは、寝込んでいるときに観てた番組で、
印象に残った言葉の話から。

遠藤周作先生がルオーを語る番組観てると、
グレアム・グリーンという作家が語ったという言葉を、
紹介してくださった。
「疑いのないところに、信仰はない。」
98%の疑いと、2%の希望が、
いい宗教であると遠藤周作さんは仰った。
なるほどなあ。
希望や期待を抱きつつ、
信仰に対する疑いを常に持ち続けるということは、
自分自身にも、絶えず、疑いの目を向けるって、
ことでもあるのかもしれない。
「それでいいのか?間違いはないか」
「昨日はそれで良かったかもしれないけど、
今日もそれで間違いないか?」。
自分自身について、絶えず、問いかけながら、
今現在の最善を考えることは、
同じように、宗教についても、
常に疑いを持ちながら接して行くことに繋がる。
だからこそ、その信仰は、
日々、試されて、
日々、強くなるのかもしれない。
熱心なキリスト教信者で有名で、
確かに、それを疑いつつ、信仰を貫くような
小説を書いてらっしゃる、
遠藤周作さんが仰る話だけに説得力があった。
自分以外の何かを100%信用してしまうのは、
ある意味、楽だ。
考えることを放棄して、
すべてを、その宗教に任せてしまえる。
正しいかどうか、自分に問うこともなく、
その宗教の規範に従っていればいい。
だからこそ、ある種の宗教は、
自分で考えることを放棄して、
ただただ、その宗教を信じ、
規範に従うことを強要する。
それは、本当の意味では宗教ではなく、
「心の独裁」なのかもしれない。
ワシはまだ出遭ったことはないのだが、
新興宗教でも、この「98%の疑いと、2%の希望」を許容する
本当の宗教はあるのかもしれない。
けど、見たところ、
100%の服従を強いるものが、ほとんどなのではないか、
と思える。
なので、ワシの中にも宗教心がないではないが、
その宗教心は、新興のものには向かわない。
そして、ワシの中には、生物やそれ以外のものでも、
すべてのものに何か霊魂のようなものが宿ってるとする
アニミズム的な考えがあるので、
ひとつの神様しか認めない一神教的な宗教は馴染まない。
やはり、日本的なやおよろずの神様、
仏様も受容してしまった八百万(やおよろず)の神様的な、
神仏混淆な考えが一番しっくりくる気がする。
しかし、今の日本の神道は、仏教を排除して、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を頂点とする、
ヒエラルキーを形成して、
せっかくの多神教的な良さを捨て、
一神教的になってる気がするので、
これも馴染まない。
明治以降の日本の西洋化で、
一番いかんかったのは、この神道の一神教化ではなかったか、
と思ったりする。
そういう意味でも、明治政府の廃仏毀釈ほど、
日本を歪めてしまったものはないのではないか、と思う。
結局、ワシは、拠り所となる確たる宗教を見つけられていないのだが、
ワシが、ケルトの音楽をはじめとする文化に強く惹かれるのは、
このアニミズム的な宗教観にあるのかもしれない、
とは思っている。

