釣崎清隆大阪死体写真展@ToraryNand。
なんと言っていいか、分からない、
今まで感じたことのない感情が、渦巻いた。
もうや、たんぱく質の物体と化した、
かつて人間だったモノたち。


事故だったり、殺人だったり、戦争だったり、
生命活動を止めた、元人間の骸(むくろ)。
報道写真ではなく、猟奇趣味でもない。
メインカルチャーでは、もちろんなく、
サブカルチャーの範囲からも、外れてしまってる気がする。
一体なんなのだ。この写真は。
そして、ワシのこの感情は。
グロテスクな趣味として観ては、絶対あかんと思うし、
ややもすれば、美しい色彩のアート写真として、
観てしまいそうにもなるのだが、
それも許されない気もする。
なんか足元から何かが崩れていって、ゾワゾワする感じ。
少し温かくなったとは言え、まだまだ寒い大阪なのに、
気がつけば、ひんやりとした汗をかいていた。
そもそもスプラッタ系、大の苦手なワシが、
なぜ、この写真展を観に行きたいと思ったのかすら、思い出せない。
牛や豚の解体写真も丸焼きも、ビジュアル的に、あまり得意ではないのだが、
そういうものとは根本的に違う、
恐怖、に近い感情が、全身を包む。
同時に、それと相反するような美しい、と思う感情も湧くのだが、
それに対しての強烈な罪悪感もある。
とにかく「これはこう」と決めてしまってはいけないんだ、
ということだけは、確信があった。
もしかしたら、この被写体にも、
かつて、ワシと同じような人生があった、と想像して、
それが、単なる骸となってることに、
同種の生物としての、畏怖を感じたのかもしれない。
観てきて、数日経つが、その時の気持ちをどうにも形にできない。
だけど、それでいいのかもしれない。
会場には、釣崎さんご本人もいらっしゃって、
会場の方や、他の観覧者とお話しされていた。
ワシも、いろいろ質問したい気がするのだけど、
どうにも質問が言葉にならない。
何度か言葉を出そうとするが、
喉の奥にくぐもった感情は、
そこに弁でもあるかのように、
口から出ることを拒む。
写真集を頂こうかと少し思ったけど、
家にこの写真集があることで、
家が安住の地ではなくなってしまう気がして、
手が出なかった。
結局「ありがとうございました」とだけ言って、
夢遊病のように階段を降りた。
会場を出てから、この写真展を教えてくれた未来さんとやり取りした。
そのやり取りで、少し心が落ち着いた。
同じように感じてる人がいる、
と思うだけで、
やっと、この世界に人間を見つけたかのような気持ちになった。
釣崎清隆大阪死体写真展@ToraryNand、
この日のことは、弱々しいワシの海馬にも、
五寸釘で刻まれた気がする。
教えていただいた未来さん、ありがとうございました。

