法が裁かなければ、自分が裁くしかない。BBBムービー「死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ」。

公式サイト
実在の人物をモチーフにして、
かなりその人の内面を中心にした映画、
実話というよりは、実在の人物をモチーフにした創作なのかもしれない。

ユダヤ人を選別し、ガス室に送り込んだり、
人を人と思わない人体実験を実行したり、
数々の残虐非道な行為に及んだナチスの中でも、
一番、えづきそうな行為に及び、「死の天使」と恐れられたヨーゼフ・メンゲレ。
その逃亡先の南米での日々を描いた映画である。

ほんまにそうであったかどうかは、知る由もないが、
メンゲレは、ナチスが倒れた後も、その正義を信じ、
その正義の元、命令に従った自分には、
一才の罪はない、と信じ、
自分を正当化しながら、一生を終える。

だけど、それは本当なのだろうか。
そう信じなければ、自分の一生を
否定してしまうことになるから、
無理矢理にでも、そう信じてるのかもしれない。

息子との唯一の出会いの場で見せる昂りは、
そのことを示してるような気がした。

ワシは人間の良心を信じたい、と、どこかで思っているのだろう。
だから、その良心が許さない行為をした人間は、
いくら理屈で自分を正当化しようと、
誰よりも、その行為を知ってる自分によって裁かれる。
実際、法によって裁かれれば、たとえそれが死刑であろうと、
それに従うだけで済むのかもしれないが、
捕まらない以上、自分で自分を裁かなければいけない。
それは、もしかしたら、実刑を受ける以上の悪夢なのではないだろうか。

映画でもメンゲレは、捕まらないために、各地を転々として、
名前を変えながらも、悪夢の中を漂っているように思える。
もし、ワシがメンゲレの立場なら、
「もうワシを捕まえてくれ!」と自首しそうな気がする。

メンゲレが逃げおおせたのは、彼の力だけではないのだろう。
彼が捕まれば困る人たちの協力もあったのだろう。
そういう意味では、この映画は、
国家という組織が「命令」という免罪符を用いて、
個人を国家犯罪に巻き込む悲劇を、
一番極端な形で、描いているのかもしれない。

そして、それは、第二次世界大戦のときの日本もそうだし、
全ての戦争に、必ずつきまとう、
「国家」と「個人」の関係なのだと思う。

いつも戦争の映画を観て思うのは、
個人レベルで考えると、
戦争って、肉体的にも、精神的にも、損なだけやなあ、ということである。

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