小学生に教えられる。

昨日のNHKスペシャルでやってた
「“わたしをあきらめない” 〜5年1組 子どもたちと先生の一年〜」を録画で観た。
いじめのない教室を目指して、ある小学校のクラスの取り組みを
1年間に亘って、追い続けたドキュメンタリー。

番組自体も良かったのだが、最後、約1年間、その取り組みを続けて来た、
小学生の心に宿った思いに大きく頷いた。

「みんなが変であるように 自分も変であるように 人を苦しめないように 
自分も苦しまないようにと 願い続けていきたい」
少し解説すると、期間が始まって、わりと早いうちに先生は子供たちに問いかけた。
黒板に、国籍や運動能力、体型など、自分が人と違ってる、つまり「変」だと
感じるかもしれない要素を書き連ね、いくつ当てはまるか。
ひとつも当てはまらない子は、一人もいなかったようだ。
みんな自分がどこか他の人と違ってる、「変」なところがあり、それに悩んでいたりもする。
自分にも「変」はあるのに、大抵のいじめは、自分以外の人の「変」を特別視することから始まる。
これは、まさしく大人の社会の縮図、ヘイトのきっかけではないだろうか。
先生は「変」の別な言い方を子供たちに尋ねる。
「個性」「特徴」。大人に言わせると今なら「多様性」などとも言われるかもしれない。

今は、大人でも、人によっては平気で、この他人との違いを、責め立てたりする人もいる。
ましてや子供の世界、本人に差別やいじめの意識はなくても、
その「変」をからかうことで、気づかぬうちに人を傷つけたり、
いじめのきっかけになってしまったりするのだと思う。

この後、先生は、その自分の「変」をみんなに発表する機会を与える。
「大胆なことするなあ」「新たないじめのきっかけにならないか?」と
ハラハラしながら見てたが、子供たちは、自分の思いもよらぬことに悩んでる友だちを受入れ、
発表した本人は、心を開けたことで、明るくなって行った。

「差別教育をなくせば、差別はなくなる」という話がときどき出る。
ワシ自身、その意見に流れそうなときもあるけど、やっぱりどこかで違うと思っていた。
これ観ながら、「やっぱり相手を知ることからしか、始まらないんやな」と改めて思った。
他人の痛みを知ること、それは本当に難しい。
決して、奥底まで知ることはできないのかもしれない。
だけど、他人がどこで痛みを感じるかは、知ることができる。

少し、話は脱線するが、番組では、「笑う」ということについても問題にしていた。
それがワシが日頃、考えていることと重なった。
ワシは、人に笑ってもらうのが好きだ。自分をネタにしてでも笑いが取れれば、幸せだ。
だけど、許せない笑いもある。
それは嘲笑だ。あざけり笑うことだ。
嘲笑は、相手を思いやる気持ちがないところに生まれるのだと思う。
愛のない笑いは、ときに喧嘩より、怒号より、相手を傷つける。
うまく説明できないが、嘲笑は、相手への無理解や、ヘイト感情から生まれるものだとワシは思っている。
だから、それは許せない。
自分自身の笑いが、嘲笑になってないか、恥ずかしい言葉で言うと、
笑う相手に愛があるかどうか、それをチェックしながら生きているつもりだ。

ここで、冒頭の小学生の言葉に戻ろう。
ワシが感心したのは、実は最後の「願い続けていきたい」という部分だ。
前半も、素晴らしいのだが、それを常に実行するのは、簡単なことではない。
ついフラフラと、人を苦しめたり、自分の変に苦しんだりする。
だから、「自分も苦しまないようにする。」のような断定的な言い方ではなく、
「願い続けていきたい」なのだな、と感じたのだ。

さっきワシは「チェックしながら生きているつもり」と書いた。
それは常に実行できてるかどうかの確信はないが、
まさに常に「願い続けていきたい」とは思っているからだ。
そのことを、この小学五年生の言葉から実感することができた。
ありがとう。

ちなみにこの番組、再放送の予定はないようですが、
今ならNHKプラスで視聴できます。
今回、この番組を観直したくて、初めてNHKプラス、登録したけど、
コロナ関係のスーパーが入ってない分録画よりも観やすいな。
これから、ちょくちょく利用させてもらいますわ!

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