京都人のいやらしさがここに!「京都ぎらい」井上章一。

ワシの本籍は京都市下京区の梅小路、
オープンしたばかりの京都鉄道博物館から歩いて5分くらい、
つまり下京区の南の端、
JR東海道線から北に100メートルも行かないところにある。
本籍があるだけで、暮らしたことはないが、
将来は、その近所にあるお寺に埋まる予定である。

15年前、福岡に転勤した当時、副支社長は京都市上京区、
同志社大学近くご出身の方であった。
その方に聞かれた。
「橋本さんも京都なんですか?」
「ええ、本籍は下京区の梅小路です。」
「は~わたし、福岡に来て10数年になりますが、
今ではあの辺も京都と言うんですか?」
………。
これが、京都である。
「ええ」という軽い肯定さえ許さない。
「京都府」は言うに及ばず、「京都市」ですら、
「京都」とは違うのである。

この京都意識と言うのを徹底的に暴いたのが、
この本「京都ぎらい」である。
「山科なんか行ったら、東山が西に見えてしまう」
「嵯峨の人はなんや喋りかたが違う」。
他の地方の人にすれば「ザ・京都!」な風景である嵐山を擁する
嵯峨ですら、この扱いを受ける。

嵯峨に生まれ育ち、現在は宇治に住む著者は、自分自身の体験を
ベースに、この京都意識のいやらしさ、そして、その歴史、
それがなぜ顕在化してきたかをも自己流に説いて明かす。
積年の恨みから「京都の人」と言われるのを拒みながらも、
自分自身にもある、京都的な意識をも分解して見せる。

そう、京都意識は、どこまで行っても入れ子構造になっているのだ。
京都人が「京都」と認める上京区、中京区、下京区の中でも、
「西陣が京都を代表するとはおこがましい!」という意識がある。
下京区でも南端にあたるワシの本籍がその扱いをうけるのも、
むべなるかな、なのである。
逆に、拡大していくと、嵯峨の人は亀岡を
「あそこは京都市やなくて『京都府』やから」と心のどこかで思い、
伏見の人は宇治に対して、同じように思っている。
どこまで行っても、マトリョーシカのように、
大きさは違うが同じ顔形が出てくる構造になっているのだ。
となると、最後は、今は東京に長期出張中だと京都人が言う、
あの家族しか残らなくなるのではないか!と思ったりもする。

この本のおもしろいところは、そのエピソードだけに終わるのではなく、
その意識をテコに、京都をはじめとする日本のいろんな事象を
読み解いて見せて、一種の日本人論になっているところである。
しかも、学術的考証ではなく、あくまで著者の体験と印象がベースに
なってるので、非常に読みやすく、暇つぶし的に読むこともできる。

祇園など花街がなぜ京都にだけ残っているか、
生臭坊主の話、
庭文化や精進料理が発達した理由も読み解いていく。

最後はその意識の根源を求め、南北朝の動乱にまで立ち入る。
それに絡めて、怨霊信仰の変遷にまで考察を進める。
先ほども言ったが、その語り口は小難しくなく、軽妙であるが、
京都市民ではあっても京都人ではないコンプレックス、
京都人を見返したいと言う思いなどが、複雑に絡まって、
全体的には正直でユーモラスな文章に仕上がっている。
「複雑なのに正直」とは矛盾のように聞えるかもしれないが、
著者は、自分の複雑な気持ちを正直に書いているのだから、
こういう表現になってしまうのだ。
それが、ややこしくなく頭に入る、
しかも笑えるくらいにおもしろく。
ということは、この著者は、大した文章の手練なのであろう。

本籍京都市民(京都人では決してない)のワシとしても、
内容的にほぼ納得できるし、
文章を読むだけでも楽しい。お勧めの一冊である。

京都に興味のある方、いや、日本に、日本人に興味のある方に
ぜひ、読んで頂きたい。

コメント欄、むちゃくちゃ盛り上がりました。
(20240504記)

2年前、ピックアップした時のコメント欄がおもろかったです。
(20240504記)

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