業を受けとめる。映画「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと。

昨年亡くなった瀬戸内寂聴さんの映画「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」を観てきた。
没後半年、こんなに早く映画ができたのは、
寂聴さんと家族のように、恋人のように、恋人を越えた人生の伴侶のように寄り添った
監督の中村裕さんが創った映画だからだろう。

寂聴さんは、自分に降りかかるすべての業をあるがままに受け止めたのだなあ。
恋という業、書くことへの業、恥ずかしさから逃れられないという業、
どれも最期の最期まで、いや、あっちの世界にまで持っていかはったんやなあ。

唯一、性欲という業だけは、出家によって切り離さはったのかもしれない。
それは、自分の自然な感情に蓋をする、と言うより、
それを封印してまでもやりたいことがあったと言うことなのだろう。

それは「書く」ということ。
「書く」ために、恋を性欲と切り離して見るために、
自分の力だけでは、成し遂げられないから、
そこだけは、出家という他力に頼ったんかなあ、
そんな風に思った。

そして、たくさんの業や煩悩を抱えたまま、何かを悟ったのだろう。
悟っているからこそ、何を話してても、必ず、可笑しい。
自分が死ぬことを話してさえ可笑しい。
そしてかわいい。

だから寂聴さんの言葉は、本物の言葉として、
聴いてる人に届くのだろう。
考えてみれば、数々の宗教家の言葉も、
大抵は教祖や先人の言葉を繰り返してることが多い。
その言葉自体、先人の言葉でも構わないと思うけど、
それが自分の言葉になるまで、咀嚼してる人は
どれくらいいるのだろう。

寂聴さんは、たとえお釈迦さんの言った言葉を使うにしろ、
自分の言葉になるまで、その言葉と向き合って、
よく噛んで、消化していたのだろう。

映画の途中、何度も、客席から笑い声が起こった。
もちろん、ワシも笑った。
なんか寅さんの映画、観てるような気分になった。
寂聴さんの笑顔は、もちろん可愛いのだけど、
拗ねた顔、泣き顔、全部が可愛くて、笑えてしまう。

ときどきふとした表情が、おかんに似てるなあ、と思った。
おかんも仏さんに近づいてるのだろうか。
口元が似てるのは、入れ歯のせいかもしれないが(笑)

おかんにも、寂聴さんみたいな逝き方をしてほしい。
と思った。
そしてワシも、あんな生き方、逝き方を、したい。

こんな表情を撮れるまで、寂聴さんに寄り添ってくださった、
中村裕さん、ありがとうございました。

そして何より、
寂聴さん、生きて、書いて、残して下さって、
ありがとうございました。
あちらでも、楽しんでください。

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