ロックは自立できる。

昔は好きだったし、自分が属してると思ってた反体制とか
サブカルチャーとかカウンターカルチャーとかいう言葉が今は嫌いだ。
結局、自分以外の誰かの存在や主張を前提にしてる気がしてしまう。

そうじゃなくて、どんな外圧があろうとぶれないものが、
真ん中にドシンとあればいいと思う。

それを揺さぶろうとする外圧があれば、徹底的に戦えばいいし、
なければ、自分を掘る作業に徹すれば良い。
「変わることがいいことだ」「動くことがいいことだ」みたいな正論は、
所詮、外圧から身を守ろうとして、出てきた薄いもんのような気がする。

何を言いたいのかと言うと、ロックンロールは自立できる、
という話なのだ。
反体制を旗印に始まったロックンロールは、
自分が体制に巻き込まれることで、死にかけ、
その体制化したロックンロールに噛みつくパンクで息を吹き替えした。
「ロック・イズ・デッド」はロックを生き返すための呪文だったのだ。
しかし、そのパンクさえ、体制化して、形式化してしまった今、
ロックは反体制という鎧を捨てて、自立しなければならない。
誰にも語れない自分を、自分の話法で語ることでしか、
次のロックはありえない。
ロック調とかロックっぽい、とかいう言葉が、一番ロックから遠い。

Facebookに載せた文章ですが、これに対するコメントで
友人の狩野さんが「非・体制」という概念を書いてはりました。
ものすごく共感しました。
「体制がないとすれば、自分はどう考えるか」を一人一人が、
見つめないとあかんのやと思います。
その投稿、リンクしておきます。
(20200714記)

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