鈴木常吉と私。

7年ほど前、手島裕司さんのウェブマガジン「サロン・ド・ハレム」に掲載した文章です。
誤字などの訂正、動画の挟み込みなどは加えましたが、
基本的にはそのまま、コピペしてます。(20200727記)

元を正せば、高田渡である。
いや、もっと元を正せば沖縄の大工哲弘であり、山之口貘である。

福岡に転勤する数年前だったと思うので
2000年頃かその少し前、沖縄民謡にハマっていた私は一枚のアルバムと遭った。
大工哲弘さんの「ジンターナショナル」。

八重山民謡の大家が日本のジンタや労働歌をモチーフに作ったアルバムだ。
その中の一曲に、「生活の柄」があった。
「おや?これは高田渡さんが歌っていた歌では??」。

数年後、大工さんのライブに行ったとき
「貘-詩人・山之口貘を歌う」というCDを見つけた。
これは沖縄出身の詩人、山之口貘さんの詩に、高田渡さんや佐渡山豊さんなどが曲をつけた歌を、
いろんな人が歌うという企画CD。
渡さん、佐渡山豊さんはもちろん、石垣勝治さん、ふちがみとふなとさん、
嘉手苅林次さん、大島保克さん、内田勘太郎さんなど、沖縄の、内地の、錚々たるメンバーが参加している。
もちろん、大工さんもソロでも参加し、ラストを渡さんと「生活の柄」で締めくくっている。
そのCDは福岡西部沖地震や数度の引越でケースがボロボロになった今も、私の愛聴版だ。

その中につれれこ社中という風変わりな名前のグループがあり
貘さんの「たぬき」という詩にメンバーがメロディーをつけ歌っていた。
演奏も奇妙で、三味線とアコーディオンと太鼓の哀調を帯びた昭和を思わせる演奏なのだが、
それだけではなく、何かを企んでいるかのような確信犯的なふてぶてしさを感じさせた。

早速「雲」というCDをAmazonで購入した。

まずAmazonの推薦文にやられた。
「高田渡、早川義夫、忌野清志郎ら、反骨の音楽家の絶賛を浴びる…」なんじゃそりゃ?
聴くとますます「なんじゃそりゃ?」
巡回の肉屋の歌、野菜の無駄な部分を捨てずに料理にする歌、井伏鱒二の訳した漢詩にメロディーをつけて…。
昭和歌謡、小唄、諧謔などを感じさせながら、やはり虎視眈々と何かを狙ってる風情。
そこらのパンクロックより、精神的にはよっぽどパンクな、いやパンクすら通過して、
一周回ってきたかのような得体の知れない音楽があった。
一発でやられた。

つれれこ社中、鈴木さんの作曲ではないのですが、「雲」収録の曲は、
これしか見つからなかったので、参考に載せます。
鈴木さんはアコーディオンを演奏されてます。(20200727記)

メンバーのことを検索しまくり、鈴木常吉さんに辿り着いた。
「元セメントミキサーズのメンバー」な、なに~~!!
イカ天最年長バンドとして話題になり、ブレイブ・コンボのカール・フィンチのプロデュースで
「笑う身体」ってCD出したあのグループか!
イカ天は関西ではオンエアしてなかったが、ブレイブ・コンボが好きだった私は、
そのCDを持っていた。正体もよく知らないままヘビロテしていた。

なんかいろんなややこしいことが繋がって、ひとつにまとまった気がして
当時鈴木常吉さんがやっていた掲示板に書き込んだ。
「福岡在住ですが、つれれこ社中を聞いて…」
その頃、鈴木さんは「つれれこ社中」を解散されて、ソロ活動を始めておられたと思う。
…数週間が経ち、その間、誰も掲示板に書着込まず、鈴木さんからの返事が掲示板に載る。
「それはどうも…」
…私も返事に気付かず数週間、
「九州に来られる予定はないのですか」
…また誰も書きこまず数週間、
「行きたいのですが、今のことろ予定は…」。
なんだか誰も見てない公開交換日記のような状態が半年くらい続いた。

鈴木さんはその頃、浅草の「なってるハウス」って箱を中心に活動されていた。
当時、私の師匠であらせられる「きむらけんじ」さんが浅草に住んでいたので
「一度見に行ってくれないか?」と頼んだ。
「行ってきたで」「どうでした?」「ステージの上で酔っ払ってたで」。

しばらくして、私がサロン・ド・ハレムの主、手島氏と東京に行く機会ができた。
なんだか、お上りさんみたいだが、鈴木さんと数寄屋橋の交番の前で待ち合わせした。
しかし、鈴木さんも私もお互い会ったことがなかったので、
きむらけんじさんにも来てもらった。
かくして「全員を知ってる奴は誰もいない」のに「何だか同じ匂いのしそう」な4人が
東京のど真ん中で出会うこととなった。
銀座とは思えない安居酒屋(たぶん三州屋)で、初めてとは思えない4人が、次々とダメ人間ぶりを披露する。
手島氏は後に「悲しいよな~~人間て」という鈴木さんの言葉が頭からこびりついて離れなかった、
と、証言することとなる。

その後、数年は「誰も見てない公開交換日記状態」が続く。
そして、私が大阪に帰った翌年の2006年、鈴木さんのファースト・ソロアルバム「ぜいご」が発売される。

すかさず買った私は、聞いた途端に「このCDを棺桶に入れてもらおう」
と思ったことを覚えている。
圧倒的な悲しみ、圧倒的な孤独、しかし、それを一人で受け止め、
言い訳の言葉ひとつ持たず、やり過ごし生きていく男の背中。
それは悲しく寂しいのだが、どこか崇高で、諦観にも似た、
此岸と彼岸の間をさまようような光景に思えた。
つれれこ社中のときにあった世の中を斜めに見るかのような視点は消え、
ひたすら自分の中に入ってゆき、悲しくなるまでに自分を見つめ、
その結果、悲しくなるまでに自分をさらけ出したアルバムだった。
こんなふうに自分と対峙している音楽には、出会ったことがない。

しばらくして、「ぜいご」の発売記念ツアー(いわゆるレコ発ツアー)で、
鈴木さんが京都の「まほろば」というお店でライブをやることになった。
数年ぶりにあった鈴木さんは、覚えていてくれたようで、私の掲示板への投稿ネームで、
「よう!なんこつ君!」と話しかけてくれた。
初めて生で見る鈴木さんのライブは、CDとは違った方法で、やはり自分と向き合う音楽だった。
ときには、「やはりこの人はパンク出身なんだ」と思うほど激しく、メロディーから逸脱して。
ときには、これ以上やっていたら、この人は消えてしまうのではないか、と思うほど、小さな声で。
その間を中尾勘二さんの小さくても、か細くはない存在感のあるサックスが埋めていき、
関島岳郎さんの間合いを知り尽くしたチューバが下を支える。
お店の料理のパチパチと弾ける天ぷらの音までが伴奏の一部になったような、心地よい時間であった。

と、まあ、いいお話はこのあたりまでで、この辺から、鈴木常吉さんと私の珍道中が始まります。
まず、私がその「まほろば」で鈴木さんの音楽を初めて生で聞けた喜びで飲みすぎて、
気がつけばタクシーに乗っていた。財布を見ると金が減ってない。
どうやら食い逃げをしたようだ。

ちなみにこの時、まほろばを手伝ってて、ワシが酔っ払って、
ちゃんと支払いできるか、心配してたのが、下村よう子ちゃんでした。
(20200727記)

しばらくして、鈴木さんが「大阪で演りたい」というので、店を紹介した。
「チャージはいくらぐらいにします?」
「そんなのどうでもいいけど、泊めてくんない?」
どうでもいいのか?
泊まった次の日、ちょっと寝坊してリビングに行くと鈴木さんはもう起きてて、
冷蔵庫からビールを出して飲んでいた。
「橋本くんも飲む?」
「飲むけど、ワシのや」。

ある日、私が用事でライブ行けないけど、鈴木さんが、うちには泊まるって日、
鍵を開けて寝てたら、ライブ後の打ち上げで酔っ払った鈴木さんから電話。
橋本くんの家がなくなっちゃた~。あるはずのところまで来たんだけど、ないよ!」
「ある!ワシが今いるんだから、ある!」

ちょうど桜がきれいな頃、打ち上げで鈴木さんに「関西で花見ってどこでするの?」と聞かれ、
「まあいろいろあるけど、関東では見られない風景って言うと嵐山ですかね~」。
その後、したたか酔っ払った私は、家の近くでタクシーを降りたあと、
鈴木さんに見せたくなったのか、違うタクシー止めて「嵐山!」と言ってたそうだ。
ちなみに私の家は大阪市内、嵐山まではタクシーだと2万円近くかかる。

鈴木さんがピアニカ前田さんと関西ツアーして、うちにピアニカさんも泊まったとき、
ピアニカさんに「橋本くん、酔っ払うとおもしろいぞ~~」と言ってたらしい。
が、私はその日、体調が悪く、あまり飲まずに早めに寝た。
次の日、鈴木さんに怒られた。
「橋本くん酔っ払わないから、ピー前(ピアニカさんのこと)に「嘘つくな」って文句言われたじゃないかよ~~」
泥酔して怒られたことは何度もあるが、泥酔しなくて怒られたのは生まれて初めてだった。

鈴木さんのおかげで、うちにはいろんなミュージシャンが来てくれる。
ピアニカさんの他にも、桜井芳樹さん、関島岳郎さん、泉邦宏さん、
泊の武村さんに笹山鳩さん(漫画家の山田参助さんのミュージシャンネーム)、
良元優作さんに、井上智恵さん、松井文ちゃん。
AZUMIさんには野菜炒めを作ってもらった。

いつの間にか、私は鈴木さんが作った個人レーベル「しゃぼん玉レコード」の
大阪支社長ということにされてしまっていた。
給料はもちろんない。持ち出しはもちろんある。
一人で犠牲になるのは嫌なので、手島氏を「九州支社長」に任命しているのだが、
かたくなに拒み「九州支社長『代理』」を名乗っているのはなぜだろう。
潔くないと思う。

そうこうするうちに鈴木さんは「深夜食堂」のオープニングテーマなどで、
そこそこ有名になり、台湾公演や韓国公演までするようになった。

しかし相変わらずホームの「なってるハウス」では、客は10人程度らしい。
「深夜食堂」のオンエアあとに出したセカンドアルバム「望郷」でも、
「ぜいご」の時に感じた自分を見つめる目は貫かれている。
年齢を経て、さらに研ぎ澄まされているのかもしれない。
ちなみに「望郷」のアルバムジャケットデザインは、これもまた勝手に
「しゃぼん玉レコードデザイン部長」に任命された私の同僚、田淵稔さんだ。

音楽のときの鈴木さんと、普段や飲むときの鈴木さん、
「全然違ってる」と最初は戸惑う人も多いが、長年の付き合いで私は、なんとなくではあるが、
「全然違ってない」と思うようになってきている。
真ん中にあるものは、ひとつで、その真ん中にあるものは、私にもあるものだからこそ、
私にとって、鈴木常吉の音楽は特別なものなのではないか、と思うようになってきている。
私が自分を悲しくなるまで見つめているか、というと、そうでもないが、
たぶん、それは、誰の心にもある、人間本来の悲しみなのではないか、と思っている。
そこを音楽にしようとする人は少ない、そして現実に音楽にできている人はさらに少ない。
鈴木常吉が誰にも似ていなく、孤高である由縁は、ここにあるのではないか、と思う。

ちなみに先日、私の誕生日のすぐあと、鈴木さんに「苦労して作ったんだぜ!」と言って渡されたものは
「しゃぼん玉レコード大阪支社長」の名刺であった。
めちゃくちゃ、昭和なデザインの。
「こんな嬉しくない誕生日プレゼントは初めてです。」と言ったが、
正直、少し嬉しかった。
棺桶に入れてもらうかどうかは、検討中である…。

最後に、これもぜいごに入ってた曲です。
煙になってしまった常さんを思いつつ。(20200727記)

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