「十九の春」はいかにして沖縄の代表的な歌になったか。
先日会社の大先輩から頂いたラジオの音源を聞いてみたら、
ずっと気になってたことが一気に解決した。
(瀬戸口さんありがとうございます。)
そのあと、少し自分で調べたことと一緒にして、
忘れないよう、かいつまんで残しておこう。
【「十九の春」はいかにして沖縄の代表的な歌になったか】
そもそもを語ると、三池炭鉱の話から始まる。
1880年代、三池炭鉱は三井財閥に落札され、繁栄に向かうが、
三池炭鉱の窓口、大牟田が面しているのは有明海、
良質な港が得られず、島原半島のさきっちょ口之津港で
大型船に積みかえられた。
口之津港には当然、労働力が必要となる。
その労働力の一部を供給したのが与論島だったのだ。
与論島は鹿児島県の最南端、奄美諸島の最南端、
沖縄諸島同様サンゴ礁でできた石灰岩の島で、産業が育ちにくい。
そこに大きな台風被害が襲い、深刻な飢饉に悩まされて、
島を捨て、1890年代、食いぶちを求め、仕事を求めて口之津に移り住んだ。
当時の与論島の人口が約5,600人で、口之津に移住したのが
約1,000人と言うから、その規模の大きさが分かる。
その後、1900年代に入り、大牟田市内に三池港が完成すると、
口之津の与論移民も多くが三池港周辺に再び移住した。
そこで与論移民たちが出会ったのが当時、
全国で流行っていた添田唖蝉坊の反戦歌「ラッパ節」
全国で流行り、歌い継がれてたため、
歌詞はそれこそ山ほどいろんなバージョンがあるのだが、
中にはこういうバージョンもある。
『名誉々々と おだて上げ
だいじな倅を むざむざと
砲(つつ)の餌食に 誰がした
元の倅に して返せ』
この歌詞の痕跡は「十九の春」の歌詞にも残ってる気がする。
話は逸れるが、この歌の原曲は軍歌の「抜刀隊」。
軍歌のメロディを反戦歌に使って、全国に広めてしまう、
唖然坊というのは、なんとも痛快で、気骨に溢れた人だなあ。
この「抜刀隊」は、オペラ「カルメン」のなかの
「騎兵隊の唄」のメロディを真似たという説もある。
もひとつおまけにわき道にそれると、この抜刀隊という曲は
有名なわらべ歌「一番はじめは」の原曲でもある。
とにかく、この「ラッパ節」を聞いた与論移民は、
これに自分の心情を乗せて、三線で演奏した。
「与論ラッパ節」の誕生である。
これは、残念ながら音源が探せなかった。
「ラッパ節」から、「十九の春」に繋がるメロディの上での
大きな変節点がこの歌だと思うので、
どこかで音源を聴いて、頭の中を繋げたい。
歌詞は見つかった。
より「十九の春」に近づいている。(抜粋)
『貴方貴方と焦がれても
あなたにゃ立派な方がある
なんど私が焦がれても
磯の浜辺の片思い
一銭五厘の葉書さえ
千里万里を便りする
同じ与論に住みながら
会えぬ心のせつなさよ』
やや歌詞は違いますが、見つけました。
お話も、このレポートと重なるところ、
いろいろあって、面白いです。
下の動画の24分4秒くらいからです。
(20240723記)
この歌が、与論島に戻り「与論小唄」になるのだが、
こうなると、ほぼ「十九の春」とイコールで、
よく表記でも「十九の春(与論小唄)」と出てきたりもする。
歌詞的にもほぼ「十九の春」に近づいて、
切ないラブソングだ。
『木の葉みたいな 我が与論
何の楽しみない所
好きなお方がおればこそ
嫌な与論も好きとなる
私があなたに来た時は
ちょうど十九の春でした
今さら離縁というなれば
もとの十九にしておくれ
十九にするのは やすけれど
庭の枯木を見てごらん
枯木に花が咲くならば
十九にするのは やすけれど
奥山住まいの うぐいすが
梅の小枝で昼寝して
花の散るような夢をみて
ホーケキョ ホケキョと鳴いている
咲いた桜に 惣れるなよ
花はきれいが 散り易い
恋をするならあの松よ
枯れて落ちるも二人づれ
花を咲かすも 雨と風
花を散らすも 雨と風
雨と風とが ないなれば
花も咲かねば 散りもせぬ
離れ小島に 住めばとて
波の音 聞きゃ淋しいよ
沖のかもめよ ふるさとの
うわさぐらいは知らせてね
わたしばかりに 思わせて
あなたは 柳に春の風
どこへ行くやら 知らねども
捨てらりゃ せぬかと気にかかる』
さて、この歌が沖縄で流行るためにはもう一つ説明が必要だ。
奄美と沖縄、一時、奄美は琉球王国の一部だったこともあり、
三線で民謡を歌うこともあって、
イメージが混同することもあるが、
大きく違うのは、その音階だ。
ごく単純に言うと奄美は内地と同じヨナ抜き音階(ドレミソラ)が基本で、
沖縄はニロ抜き音階(ドミファソシド)で作られた曲が多い。
※ちなみに「ヨナ抜き」は「四七抜き」つまり「ドレミファソラシ」の四と七を抜いた音階で、
「ニロ抜き」は同様に「二六抜き」。
ところが奄美諸島の中でも与論島とその北の沖永良部島だけは、
ニロ抜き音階が基本になっている。
「与論小唄」自体は「ヨナ抜き」でできているものの、
音階的にも、地域的にも、結び付きの強い、
与論でできた曲であったため、
沖縄本島でも流行ったのではないか、と思う。
そして、ヨナ抜きでできていて、地域内の与論で流行った歌であったため、
奄美本島でも歌われるようになったと想像する。
沖縄本島では、この歌が「尾類小(じゅりぐゎー)小唄」
つまり遊女の切ない心を歌った曲としてヒットした。
現在の歌詞は、この頃、ほぼ完成したのではないかと思う。
初めてのレコード化は1972年だったという。
このときに「十九の春」というタイトルがつけられたそうだ。
それを御存じバタヤンこと田端義夫がカバーして、全国区的流行歌となり、
特に沖縄、奄美地方では未だに歌い継がれているのである。
そして、これだけの歴史を経てきた歌だけに現在でも
いろんな歌詞のバージョンが歌われている。
基本バージョンの歌詞は
『私があなたに ほれたのは ちょうど 十九の春でした
今さら離縁と 言うならば もとの十九に しておくれ
もとの十九に するならば 庭の枯れ木を 見てごらん
枯れ木に花が 咲いたなら 十九にするのも やすけれど
みすて心が あるならば 早くお知らせ 下さいね
年も若く あるうちに 思い残すな 明日の花
一銭二銭の 葉書さえ 千里万里と 旅をする
同じコザ市に 住みながら あえぬ吾が身の せつなさよ
奥山住まいの ウグイスは 梅の小枝で 昼寝して
春が来るよな 夢をみて ホケキョホケキョと鳴いていた』
まずは、やはりバタヤンのバージョンで。
続いて、沖縄民謡の至宝、嘉手刈林昌さんと大城美佐子さんの「ナビィの恋」バージョン。
フィドルは、林昌さんの息子、嘉手刈林次さん。
変わり種で、高田渡さん。
ふう。
音源で聴いたことに調べたこと少し足すだけかと思ったけど、
書くと長くなってしまった。
すみません!
もしかたら「カルメン」がルーツってのはビックリしたなあ。
もうひとつおまけで、ラッパ節は直接沖縄に入って来てもいるらしい。
この歌のルーツにはもうひとつ、
二次大戦中に米軍に撃沈された「嘉義丸」という貨物船の
鎮魂歌という説もあるのだが、
それについては、
また調べてみようと思う。
とりあえず、見つけたのは、この文章。
この中に出てくる三線の名手で鍼灸師の「朝崎辰恕」という方は、
奄美民謡の大御所で去年「橋の下世界音楽祭」で観た朝崎郁恵さんの
お父さんだというので、その辺りから探っていきたいと思う。