佐伯祐三 ― 自画像としての風景@中之島美術館。

大阪中津の光徳寺生まれっちゅう、
ズブズブの大阪人やのに、
めっちゃシュッとした男前で、
コテコテとはほど遠い、
センスを感じる画風で、
中之島美術館のイチオシっぽい
佐伯祐三の展覧会が始まってる。
佐伯祐三 ― 自画像としての風景」。

ちょっと検索して見たら、光徳寺、
今も、光徳寺善隣館という障害者施設を運営してて、
佐伯祐正さん〜佐伯祐善さんが理事やってるみたい。
親戚筋なんやろなあ。

佐伯祐三は、パリに留学してる時、
自信満々で、フォービズムの巨匠ヴラマンクに絵を見てもらったら、
ケチョンケチョンにけなされて、
そこから心を一新して、
あの画風に至ったって話、どっかで聞いてから、
ずっと気になってた画家ではあった。

撮影、できる絵も多かったので、展示順に感想を。

プロローグ 自画像。

男前の自覚があったんか、自画像、けっこうぎょうさん描いてた。
中でも有名なんは、この顔を塗りつぶした「立てる自画像」。
これ、ヴラマンクにボロカス言われた直後に描いたらしい。
そうとう凹んだんやろなあ。

この絵は、印刷観たことあったんやけど、
ほんまに「どうでもええ」と思ってたんか、
この後、後ろに、違う絵を描いてるとは知らんかった。

この裏に描いた絵の色目がちょっとヴラマンクっぽいのが、なんか微笑ましかった。

第1章 大阪、東京。(1926 - 1927年)

パリから帰ってきた後に住んだ東京(下落合中心)と、故郷大阪の船の風景画中心のコーナー。

なんのコーナーやったかな?娘さんの絵と人参の赤が印象に残った。

第2章 パリ。壁のパリ(1925年)

時代は前後するけど、一回目の渡仏。
ヴラマンクに貶された後、画風を探し求めて、
壁の面白さに独自の路線を見出していく過程がようわかった。

最初はもろセザンヌ。
怒られる前やろか。

ゴッホには、相当影響されてたみたいで、ゴッホも描いた「オーベルの教会」描いてた。

模倣から始まって、だんだん、独特のものになっていく過程がおもろかった。
自分らしさを探す始めの頃は、迷いもあったのか、ヴラマンクに近い色合いになってるのが興味深い。
だんだん、壁そのものに興味が深まっていったんかな。

線のパリ(1927年)。

一度帰国して、第一章の大阪、東京の絵を経てからの二回目の渡仏。パリ。
なんだか興味が壁から、壁に貼り散らされた広告、ポスターに向かってる気がする。
それが、どんどん進化して、
途中から、なんだかポップアートみたいになってきた。
昭和3年に亡くなってるけど、
佐伯祐三、めっちゃ早くに、
現代的なポップセンスを絵画に持ち込んでたのかもしれん。
物凄い先駆者なんかも。
広告という、既にある表現物をモチーフにして、
自分の表現作るって、
ある意味、大竹伸朗さんのやってることと同じやもんなあ。

3章 ヴィリエ=シュル=モラン(1928年)。

亡くなる年、パリの郊外に行って、描きまくったらしい。
寿命を知ってたのか。
パリとは違う開放感がええなあ。
同じ教会を、何度も何度も描いている。

「煉瓦焼」。この絵、大好き。
佐伯祐三らしさの詰まった究極の一枚って気がする。

エピローグ

1928年3月、パリに戻って、5枚描いたあと、喀血して、
8月に亡くなるまで描けなかったらしい。
ということは、ヴィリエ=シュル=モランは、すべて(撮ってないのもある。展示されてないのもある。)
二ヶ月くらいで描いたのか。
人間業とは思えん。


絶筆と言われる「郵便配達夫」。
この歪な空間の捉え方、パーツパーツは平面的な感じ、
でも日本画ではなく、洋画らしさもある。
佐伯祐三の画風を貫き通したんやな。
この絵も、ほんま好き。

グッズも充実してたんやが、展覧会グッズ、けっこう同じようなもんが多くて、
マスキングテープとか、あんまり使わないのに、ぎょうさんあったり、
一番気に入った作品のグッズが無かったりで、
買おうという気にあまりなれない。
今回は、郵便配達夫の可愛らしい刺繍入ったタオルと、
いつか、ワシの冷蔵庫で展覧会開こう思ってるので、
この日、一番気に入った「煉瓦焼」のマグネットの二点だけ、
買わせて頂きました。

この展覧会は6月25日までです。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA