映画「FAKE」。

今更ながらかもしれんが、
佐村河内守さんに密着したドキュメンタリー映画
「FAKE」のディレクターズカット版DVDを観る。
これは客観的なドキュメンタリーゆーより、
製作者が、製作者という立場を超えて、被写体と関わって行き、
被写体の精神を再生させる物語やなあ、と思った。

全編通して感じるのは、マスコミの無責任な面白がり方。
彼らは真実ではなく、視聴者が喜ぶであろうイメージを
作ろうとしているのだな。
そして、それは本当に視聴者が
求めてるかどうかもある意味関係ない。
「こーなはず」を追いかけてる。
つまり、マスコミは視聴者に忖度して、
事実を曲げてでも視聴者に寄ろうとするあまり、
視聴者すらも置き去りにしてしまって、
「今、この人はこう料理すべき」という
同調圧力を自ら作り出してるのだと思う。
そして、それを視聴者が常に求めてる、
という前提になってるから、
ヒット曲のように、誰かの話題が廃れたら、
次はこの人と、スケープゴートを探し、
事実よりもイメージで血祭りにあげるのだな。
佐村河内さん始め、そのスケープゴートたちも、完全に被害者ではなく、
自分自身も突かれると痛いところはもちろんあるのだけど、
一番、ゲスなのは、今も、次のスケープゴートを探してる
あいつらなんやなあ、と改めて思った。

佐村河内さんは、最初は自ら作曲することを
放棄してるような感じなのだけど、
このドキュメンタリーの作者の森さんと、
人間として触れ合い、信頼し合ううちに、
森さんの言葉に動かされて、作曲をし始める。
そう、この映画の監督の森さんは、
自分でも映画に出演し、意見を述べ
ドキュメンタリーという事実に関わって行く、
というある意味掟破りをしてしまうのだ。
ちょっと普通のドキュメンタリーと違うのは、
この辺りからも分かると思う。
そして、佐村河内さんに欠かせない
手話通訳兼パートナーである奥さんとの
愛情を確認する物語ともなっている。

その結果出来上がった音楽も映画中で披露される。
それが、良いのかどうかは、
クラシックや現代音楽をあまり知らないワシには判断できない。
少なくとも、ワシにとっては
なんとも面白みのない音楽ではあった。

映画の本筋ではないが、
ふと思ったことふたつ。

ひとつは、この映画の演技賞は、
佐村河内さんが飼ってはる猫やな、ってこと。
もうひとつは、佐村河内家では
お客さんが来ると、必ずショートケーキを出すんやな、
ってことでした。

コメント欄、盛り上がりました。
(20231009記)

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