自分で考えることについて。自分への戒め。

誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、
自分の頭で考えることは大切や、と日頃から思っている。
自分ではない、尊敬できる誰かの意見を、
そのまま自分の意見にしてしまうのは、
ラクやし、多数派に所属できてる気分になれて、
気持ちいいのかもしれない。
責任感も分散するのかもしれないし。

ときどきX(旧Twitter)で、
リポストではなく、投稿者は違っているのに、
まったく同じ文章の投稿を散見するが、
あんなテンプレート現象こそ、
この鵜呑みの最たるものだろう。

けど、それだと、ほんまに生きてることになるんだろうか、
と思ってしまう。
生きてることの面白みって、
やっぱり、間違ったり、少数派になったりしながらも、
自分自身で考え、その意見に従って、日々を過ごすことではないか。
と思ってるので、
文章だけでなく、言い回しでも、
他人から借りてきたものを、
そのまま使う人の気持ちが、よくわからなかったりする。

しかし、この「自分で考える」ということにも、
人間なので、落とし穴があるんだろうな。
自分で考えると、どうしても、
自分の都合のいいように、事実を解釈してしまう傾向があるのではないかな。
カエサルの言うように「人は見たいものしか見ない」という側面は、
自分一人で考えてしまうと、避けては通れないのかもしれない。

写真はネットから。

だから、自分で考える前に、
客観的事実は客観的事実として、捉える必要があるのだろう。
歴史修正主義者のあかんところって、
この客観的事実を、自分のええように解釈してしまうところなんやろな。
間違った事実や解釈の上に構築した自分の意見は、
結果的に間違ったものになっていくしかないのではないか、と思う。

ぞれと、どこかに「自分を疑う」という姿勢もなくてはならない気がする。
自分がたどり着いた結論が、ほんまにそれでええのか、
何か見落としてることはないか、
昨日は正しくても、今日はまた違ったことになってないか、
常に疑う姿勢。
間違ってたら、意地を張らずにいつでも直せる柔軟な気持ち。
いつでも、自分をアップデートしていく覚悟が、
この時代を、しなやかに生きていくためには、必要なのだ、
少しでも自分の思う幸せに近づくためには、必要なのだと、
自分に言い聞かせよう。

以上、映画「ナチ刑法175条」を観て思ったのだが、
映画の本筋とは、あまり関係のないことなので、
別の話として書いてみました。

自分への戒めとして。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA