映画「岡本太郎の沖縄」。

年明けにようやく観にいけた。
「岡本太郎の沖縄」。
やっぱり観ておくべき映画だった。
先に観た十夢くんが「面白かったけど、少し難しかった」と
言ってた意味も良くわかった。

1959年、1966年、復帰前の沖縄に訪れた太郎は、二冊の本を残す。
一冊は評論集「沖縄文化論」。
復帰前ながら、今も沖縄に厳然と存在する問題を、
既にしっかり捉えてた名著だと思う。
そしてもう一冊は写真集「岡本太郎の沖縄」。
この表紙を飾るおばあさんの顔は強烈で、
一度見たら忘れられるものではない。

その写真集の足跡を辿るようなドキュメンタリー映画だった。
しかし、その足跡をナレーションを交えて説明するのではなく、
太郎の写真と現在を並べながら、
変わるもの、変わらぬもの、太郎がそこに何を見たかを
浮き彫りにしようとする、ドキュメンタリーというよりは
ポエジーのような映画だったので、
芭蕉布とか、ガープ川とか金武大川とか御嶽とかの、
知識がなかったら、ちょっと意味がわかりにくかっただろう。

そうやって、太郎が見たように、沖縄の根源は、
日本の根源であり、太郎自身の根源であったことに、
詩的に迫っていくような映画だった。

太郎は、二回沖縄を訪れているが、二回目は、
ほぼ久高島のイザイホーという儀式を見るためであった。
それは久高島のノロ(祭礼を司る一種のシャーマン)を中心に
久高島の成人女性すべてが参加して午の年に開かれるお祭りである。
その中心になるのが、写真集の表紙のおばあさん、久高ノロである。
このイザイホー部分だけは、ドキュメンタリー調の
解説と実証が続くが、太郎が巻き込まれ、
批判を浴びた問題に対しては、
類推できる映像を提示するが、敢えて結論は言わない。
なんか、それはとても品良く、正しいやり方に思えた。

是非、パンフレットを買いたかったのだが、
売り場には置いてなかった。
諦めて帰ろうとすると、ポスターに
#岡本太郎の沖縄」と入れてSNSに投稿したら
非売品のパンフレットがもらえる、と書いてあった。
とりあえず、その場で、適当に書いて、アップして、
それを提示してパンフレットをもらったのだが、
納得できる文章ではなかったので、
リライトしてアップすることにした。

そういえば、昔、沖縄に対して太郎が言ったフレーズ、
「沖縄とは、私にとって一つの恋のようなものだった。」が、
ワシの気持ちを言い当てすぎてて、嫉妬するくらい
悔しかったことを思い出した。

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