沖縄に住むヤマトンチュの見た、ウチナンチュの苦悩。

長い長い時間、沖縄は日本の安全保障の最前線であることを強いられてきた。
それに対し、ときには声高に怒りを表したこともある。
が、人間は怒ったままでは、生きていけない。
怒ったまま、日常生活を送るのは疲れるし、
判断が感情的になってしまうこともあるだろう。

だからと言って、怒りが静まったわけではないのだ。
行き場のない怒りは、沖縄の人の心に悲しみとなり、
今も降り積もっているのだろう。

沖縄在住のヤマトンチュが書いた、ウチナンチュの心情を
おもんばかった文章。
かなりの部分、納得できた。

沖縄に住んでいることを告げると、「基地問題が大変ですね」とか、「やっぱり皆さん怒ってるんですか」とか、おそらく共感でも、同情でもない、何というか探るような質問を受けることが増えてきました。

たしかに私は沖縄県に住んでるんですが、ヤマトンチュ(本土出身者)ということもあって、米軍基地について判断を差し挟むような発言をしないようにしています。私なりの想いはあるのですが、たぶん、ウチナンチュ(沖縄の人)とはズレがあるはず。いや、だいたいウチナンチュが何を考えているか、よく分からなくなるときもあるのです。

たとえば、先月、売り場面積が県内最大(九州で2番目)のショッピングモール「沖縄ライカム」がオープンしました。赤瓦を基調にした沖縄らしいリゾート感覚で、地上5階建てに220ものテナントが入居した壮大なアーケードに、多くの沖縄県民が連日集い、楽しげに歩いています。ところで、この「ライカム」というネーミングですが、かつて北中城村にあった琉球米軍司令部(”Ry”ukyu “Com”mand headquarters)の略に由来しています。これだけ基地問題に敏感な時期にライカムという名をショッピングモールにつけ、とくに疑念もなさそうにウチナンチュが集まっていることが、どうにもヤマトンチュには理解できません(私に知識と経験がないだけ ^^;)。

まあ、とっても複雑なんですよ。きっと・・・ だから、沖縄に住むヤマトンチュは誤解を招かないようにした方がいい。

ただし、本土で「沖縄の人は怒ってんですか?」と聞かれたときは、私は(福岡出身であることを断ったうえで)「いや、ほとんどの人は怒ってるというより、この状況を悲しんでいるように見えます」と答えています。その方が、私にはしっくりくるからです。

ここで話は、新型インフルエンザが流行した2009年に遡ります。

当時、私は、厚生労働省の新型インフルエンザ対策推進本部で全国の疫学情報を分析し、必要な対策について検討する仕事をしていました。そして、7月下旬頃より、全国に先駆けて沖縄県において急速にインフルエンザ患者が発生していることを憂慮していました。さらに、沖縄県の状況をいろいろな側面から検討するなかで、ある仮説が有力となってきました。それは、子どもたちのエイサーの練習です。

沖縄県では、8月の旧盆前後に、各地で催されるエイサー祭りに向けて、子どもたちがエイサーという踊りの練習をしていました。ヒトへの適応の過渡期にある新型インフルエンザは、(トリやブタの平熱に近い)高体温で効率的に感染すると言われています。このため、5月から7月の小流行においても、子どもたちが高体温になって接触するスポーツ大会での流行が目立っていたものです。

エイサーの練習はかなり怪しい・・・、流行を抑止するためにはエイサー祭りを中止させるべきではないだろうか・・・? そんな疑念をもった私は、沖縄県で感染対策の陣頭指揮をとっていたE先生に電話をかけてみました。

「エイサーまずいんじゃないですか? 中止した方がよくないですか?」と私は言いました。
「高山先生・・・、それは言っちゃだめだよ。国は言わない方がいい」とE先生。
「どうしてですか?」

「沖縄の人がね。悲しむからさ・・・」

この言葉には、ドキリとさせられました。自らの無神経さを指摘されたような気がしたからかもしれません。それ以上の説明がないまま、しばらく、電話口では沈黙が続いていました。

ついに、私は「わかりました」と言いました。「エイサーのことは沖縄にお任せしたいと思います。もし、やっぱり中止すべき状況になって、そのとき県で決定するより、国から要請した方がよいという場合には連絡ください。こちらで泥をかぶります」

「ありがとう。そのときはよろしく」とE先生は言って、電話が切られました。

実は、このあと相談した他の人からも、「悲しむ」という言葉が聞かれました。あのときは、よく分からなかったんですが、いま沖縄で暮らすようになって、何となく理解できるようなってきました。どうにもならない不条理、矛盾・・・ こうしたことに腹を立てる沖縄の人たちもいます。でも、どうすれば良いかわからず、悲しんでいる沖縄の人たちが大勢いるのです。

沖縄に暮らすヤマトンチュとして、そして医師として、これ以上、沖縄の人たちを悲しませないでほしいと思っています。沖縄の人たちの多くが、どうすれば良いかわからずにいます。それは、沖縄の責任ではありません。沖縄が解決すべき問題でもないはずです。

なかには、「沖縄は日本の安全保障を軽視している」とか、「日本を裏切って中国にすり寄ろうとしている」とか、ひどい言葉を平気で発する本土の人たちがいます。でもですね、大田中将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」を引用するまでもなく、沖縄ほど日本の安全保障のために住民と土地を犠牲にしてきた県はないのですよ。また、その後のアメリカ占領下においても、日本人であろうとする想いを沖縄の人々は貫き通してくれました。どこの県民よりも、沖縄県民ほど、日本人であろうと努力した人々はいないのです。そんな真の愛国者に投げつけられる、あまりにも無知で軽率な言葉の数々に、ヤマトンチュの私ですら深い悲しみを覚えずにはいられません。

行政の役割とは、住民に泥をかけることではないと思っています。不条理とか、矛盾とか、そういう困難に直面している住民たちの前で、泥をかぶってみせるのが行政の役割じゃないでしょうか。せめて、沖縄の人たちの声に耳を傾けてください。それは、基地の前でシュプレヒコールをあげている人ばかりではありません。飛び交う砲弾と裂け散る閃光のなかを生き抜き、同胞のいのちを奪った軍隊に占領され、依存して生きるように求められ、それでも日本人のひとりとして繁栄の時代を築いて、そして静かに年老いている沖縄の人。そんな人たちに向かい合うことができずに、いったいどんな政治があるのかなと・・・ そう感じています。

高山義浩さん、2015年5月14日のFacebookへの投稿より、引用。

自分の住むところは初めから日本であって、
日本であることに何の疑問も持たなかったワシのような、ナイチャー。
自分の意志ではなく日本に組み込まれたのに、
日本であろうと努力して、先の大戦ではどこの人より多くの血を流した沖縄の人たち。

「怒る」のではなく「悲しむ」。
沖縄は歴史の中で、意思とは違う状況に置かれることが幾度とあり、
悲しみに、慣れてしまっているのかもしれない。
しかし、ナイチャーが、よりによって政府が、
その悲しみへの慣れを利用してはいけない。
どうすれば、その悲しみを減らすことができるのか。
それを真剣に考えることが、どこの人より、日本であろうとして、
血を流した沖縄の人たちへの、せめてもの努めであると思う。(20170523記)

この状況下、沖縄の子供たちは
エイサーの練習、できてるんだろうか。
エイサー大会は開かれるんだろうか。

首里城が燃えて初めての旧盆、
せめてエイサー大会が開けますように!

沖縄の悲しみが少しでも癒えますように。
(20200523記)

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