映画「HOKUSAI」。

おもろかった。
ビジュアルも美しく、
構成も無駄がなくて、すんなりストーリーに入っていけた。
たまたま行ったんやけど、これは当たりでしたわ。

ワシは、映画、行かんときは、半年くらい行かなかったりするんやけど、
行き始めると、なんか次々行ってしまう癖がある。
今、ちょうど、ブームが来てるので、
その勢いで、何の期待もせずに行ってしまった映画だった。

元々、浮世絵好きだし、だったら絶対北斎は避けて通れないし、
最近「新美の巨人たち」って番組で、柳楽優弥さんが出てた
北斎の『怒濤図』の回で、紹介されてておもろかったし、

田中泯さんは、去年かな?京都市京セラ美術館のこけら落としでやってた
杉本博司さんの「瑠璃の浄土」で観た舞踊に衝撃受けたしで、
公式ホームページとか見ないで、
ほとんど予備知識なしで、出かけたのだった。

吉原のシーンは、けばけばしいほど極彩色で、艶やかな美しさ、
波のシーンでは、頭で反芻するとモノクロだったっけ?と思ってしまうような
激しいが、枯淡とも言えるような味わい、
それが矛盾せず、ひとつのトーンを形作っている。

ストーリーは無駄なくある意味テンポよく進むのだが、
ひとつひとつのシーンは、たっぷりの間をとって、
息を呑むほどの緊張感に溢れ、
手に汗を握るような場面が、観終わったあとも、
いくつも頭の中に飛来する。

その中で、主な役者含め、すべての役者が己の役割を心得え、
その役になりきり、
スタッフ含め、すべての関係者が、迷いなく、
一つの目的地に向かってる清々しさまで感じるような、
よくできた映画だったと思う。

主役の二人、柳楽優弥さんと田中泯さんは、
北斎の青年期と老年期を演じ分けるのだが、
そこに違和感がまったくない。
「あの人が、あの人の本質は変えないまま、いろんな経験を肥やしにして、
あの人になったのだ」と頭の中で、真っ直ぐ繋がっている。
老年になっても、絵に対するピュアな姿勢を貫いてるので、
そんな気がしてしまうのかもしれない。

その姿勢とは、人にどう言われる、売れる売れないに関わらず、
自分の中にあるカタマリを絵として、自分の目に見える形にしたい、
という気持ちなのかもしれない。
その思いは、絵であろうと、音楽であろうと、文章であろうと、
すべての表現者にとって、スタートラインであり、
同時にゴールラインでもあるのではないか、と思った。

きっと映画の関係者も、同じ思いを胸に
この映画に関わって来たのではないか、と思う。
だから出来上がったこの映画には、濁りがなく、
美しい芸術作品として昇華されてるのではないか、と思った。

あと少し、雑談レベルのこと言いうと、
老年の北斎に寄り添う作家役で永山瑛太さんが出てるのだが、
永山さん、確か、NHKのドラマでは、伊藤若冲に寄り添ってたな。
それも文学者として。
たまたまかもしれんけど似た背景持った役やってるなあ。
けど、永山さん、この映画でもその役にピタッとハマっていた。

田中泯さんの動きは、役者としての演技ではあるものの、
本当に無駄のない所作で、踊ってるようにも観えた。
その動きが網膜に焼き付いている。
きっとワシはこれから北斎を思うとき、
田中泯さんの姿で思うんだろうな。

さて、映画が終わったのは、11時20分、まだ午前中だ。
映画づいてるワシは、その足で塚口サンサン劇に向かった。
本日二本目に予定してた「ノマドランド」の上映だ。
しかし、着くと、その回が塚口サンサン劇場での
最終公開だったためか、売り切れてた。
しまった〜〜!HOKUSAIが朝9時からだったので、
寝ぼけてて予約するの、忘れてた!!
せめてHOKUSAI終わってすぐ予約してみれば良かった。
も〜、今多くの劇場で採用されてる「ネット予約も当日から」システム、
どうにかならんか?
公開スケジュールも3日ほど前にならんと発表されんこと多いし、
予定立てにくいっちゃありゃしない。

大体、このノマドランド、観に行こうと思ってたタイミングで、
例の宣言が出て、やってる劇場が、ほとんど休業になったのだ。
これで二回目の門前払いだ。
まだ大阪でやってる劇場あるので、来週、三度目の正直に挑戦しよう。

とか、ドトールで、休憩しながら、思いつつ、
スゴスゴと大阪に帰るのであった。

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