映画「アイダよ、何処へ?」。

※多少のネタバレあり。

たったの26年前である。
ワシが社会人として働いて10年も経っている。
日本がバブルの夢から醒めかけた1995年、
ヨーロッパで、これほど、凄まじい虐殺が起こっていたとは。

映画「アイダよ、何処へ?」を観てきた。

1995年、ユーゴスラビア崩壊のあと、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで起こった内戦で、
「スレブレニツァ・ジェノサイド」という第二次世界大戦後ヨーロッパで最悪と言われる虐殺があった。
ワシは、どうもあの内戦の経緯がよくわかってなかったのだが、
同じ国の中で、ここまで激烈な戦争があったとは、知らなかった。
ものすごく単純化して言ってしまうと、
カトリック、イスラム、ギリシア正教、
それぞれを信仰する民族の三つ巴の争いだったのだな。

恐ろしかったのは、内戦が始まるまでは机を並べていた同級生を
虐殺の地に送るため、
笑いながら、その同級生の母親(かつての自分の先生でもある)に、
息子の行方を尋ねるシーン。
これはフィクションだが、きっと同じようなことが実際にもあったのだろう。

今現在の日本で生活してると、そこまでの憎悪というのは、
想像できる範囲を超えてしまってるのだが、
今、主にTwitterやヤフーニュースのコメント欄で繰り広げられる
容赦のない叩き合いを見ると、
この素地に国がそれぞれの正義を与え、
そこに群集心理が働くと、
こんなどう考えても間違っている悲惨なことに、なりうるかもしれない、と思った。
ひとりひとりの力は、本当に弱い。
だからこそ、それを束ねる公の力が必要なのだろうが、
その公の力が、間違った方向に向かうと、
ひとりひとりでは到底出来ない虐殺をも可能にしてしまうのだ。

この映画を観ていて、国連の力の無さにも落胆した。
基本的に中立であろうとするからか、
力の強い方の行動を抑えることができない。
明らかな侵略戦争であれば、
強制的な武力行使もしやすいのだろうが、
内戦となると、明らかな悪は見えにくくなる。
判断は難しくなる。
虐殺が始まってからでは遅いのだ。

そもそも武力で紛争を解決しようという
スタートラインが間違っているように思うのだが、
では、どうやって衝突の前に解決するのか。
その答えは、正直よくわからない。

ただ、夫と息子二人を失った、この映画の主人公、
アイダが憎しみを抱えつつ、最後に見せる寛容の精神こそ、
世界が次の段階に進む唯一の手段なのではないかと思う。

ちなみに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、
未だに、校庭がフェンスで分断され、
それぞれの民族ごとに授業する学校が、
いくつもあるそうだ。
それぞれの民族の伝統を大事にすること、
民族の誇りを持つことは大切だと思う。
だけど、それは違う民族を否定することではない。
自民族の誇りと、他民族との共存は、
矛盾する概念ではない、と確信する。

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