分断が戦争を招く。わかっていても分断はなくならない。映画「ウクライナから平和を叫ぶ」を観て。
ウクライナをスロバキア人写真家が撮ったドキュメンタリー映画「ウクライナから平和を叫ぶ」を観て来た。
実はこれは、2016年の映画。
つまりロシアのウクライナ侵攻はまだ始まってない。
当時のウクライナは親ロシア派、親欧米派の争う内戦状態。
プーチンに助けを求める老婆、
プーチンTシャツを誇らしげに着る若い女の子もいる。
もちろん、ウクライナの独立を重んじて、ロシアを非難する人もいる。
ロシアを正当化するわけじゃないけど、
ひとつ言えるのは、ロシアはある日突然、
ウクライナの領土化を目指して侵攻し始めたわけではないということかもしれない。
この映画を観てから、現在の状況を考えると、
一方的にロシアを加害者、ウクライナを被害者とも言えなくなるし、
ウクライナが絶対的な善でも、ロシアが滅ぶべき悪とも思えなくなる。
ただ、そこにあるのは、分断。
解決の糸口すら見えない大きな分断。
どちらか一方が膝を崩し、首を垂れるまで、
戦わなければいけないのだろうか。
けど、そのときうなだれた人々も納得いかなければ、
何年か何十年か、何百年かのち、再び拳を上げるかもしれない。
分断は、どうしたらなくなるのだろう。
宗教だけでは役に立たないことは、宗教が却って分断を生んできた歴史が証明している。
イデオロギーは、恐ろしいほど大きな分断を生み続けている。
宗教や、イデオロギーが、建国の根本にある限り、
そこからこぼれたマイノリティは、憎悪を深めるのか。
では何を国の根本にすれば良いのか。
そもそも国という概念自体が必要なのか。
もっと別な画期的なシステムが世界には必要なのかもしれない。
それが何なんなのかは、残念ながら、この映画を観ていても分からない。
ただ、映画に出てくる何人かの口から出たように、
ロシアの人も、ウクライナの人も、個人個人で見れば、
いろんな垣根を超えて大切な人になり得る。
そのことが唯一のヒントのような気がした。
それとも、この映画の予告編の最後にあるように、
人間は分断を必要とする生き物で、その結果、戦争を求めるのは本能で、
どんな社会形態になろうとも、戦争はなくならないのだろうか。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
けど「戦争をなくそう。そのために分断をなくそう」と努力しなければ、
戦争は、減るどころか、今以上に増えることになりかねないし、
もしかしたら、あるかもしれない、分断のない、その結果、戦争もない
理想的な社会形態も見えてこないのではないかと思う。
いろいろ考えさせられたが、進むべき方向が、見えなくて、
悶々とする映画でもあった。
しかし、予告編にも出てくる門の前でインタビューに答える老婆の嘆きは、
言葉もリズムも美しく、一編の詩のようであった。
悲しみは芸術を生む、というのは、本当のようだ。
だからと言って、芸術のために戦争が必要だと言うつもりはないが。
人間はなんで戦争をするのか。
どうしたら恒久の平和が訪れるのか。
答えは、まだ解らないけれど、
考え続けなければならない、
と、この映画観て決意した一年前。
(20230908記)