過去か未来かわからんけど、いつかの自分を見たのかもしれない。BBBムービー「逃げきれた夢」。

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ラストのシーン以外は、ほとんど光石研さんの一人芝居のよう。
家族も含め、他の登場人物は「合いの手」くらいの存在感しかないまま、
映画が進んでいく。
「ちょっと不思議な、難しい映画やな」と思いながら、
けど、何か、どこかで体験したような気持ちもありながら見ていた。

途中でふと気づいた。
「あ、これはワシが日頃、体験してる風景や、他者と関わる時間配分に似てるんや」
誰もがそうだと思うけど、自分のことを完全に離れて、客観的に見ることなどできないし、
自分の中に響いてるのは、ほとんどが自分の心の声で、
たまに誰かと話をすると、ほんと合いの手のように、
他者の考えが、自分の考えの中に挟まれる。

そのことを気がついたのは、この映画の中で、
一番好きなシーン、
光石さんと松重豊さんの口喧嘩のシーンだった。

かと言って、この映画は
「他者は合いの手くらいの存在なんだから、どうでもええよ」
という映画では全然ない。
むしろ、その合いの手くらいのパーセンテージしかない他者の言葉が、
自分ではどうしても気付けないことに気づかせてくれて、
自分の舵取りに大きく影響する、
それくらい他者との関わりが大事なのだ、ということに、
主人公が気づいていく映画なんじゃないか、と思う。

ここだけは、ただの合いの手ではない、
ラスト近くのそれほど親しい間柄でもない元教え子との濃密なやりとりに、
そのことが凝縮されているような気がする。
このシーンでは「それほど親しい間柄でもない」ということが
すごく重要な気がした。
家族より、親友より、さらに存在感の薄い他者、
しかも、主人公を説得しようとも思ってない他者、
そんな全体から見れば、ほぼゼロに近いパーセンテージの
関わりしかない人とのやり取りが、
自分の生き方に、何か啓示を与える、
そんなことは、誰の人生にも、
起こりうることなのかもしれない。
あまり親しい間柄ではないからこそ、
このシーンは、すごくリアリティがあって、
映画全体のストーリーを引っ張っていく力がある気がした。

人は、自分の価値の中で生きていて、
なかなか自分を客観的に、俯瞰的に、見ることができない。
誰の言葉でも、構わない。
それに気づかせてくれて、
本当の自分を分からせてくれる言葉に、
敏感でいたいと思った。

ひとつ釈然としなかったのは「逃げきれた夢」というタイトル。
何から逃げきれたのだろう。
これは今の主人公の状態のことを言ってるのだろうか、
それとも、主人公がそのままだったら、ということなのだろうか。
その辺が「なるほど!」と思う機会が来たら、
この映画は、ワシにとってさらに大切な映画になる気がする。

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