両極端。ふたつの学校の映画。BBBムービー「コロニアの子供たち」「ぼくたちの哲学教室」。
基本的に、1ブログ1作で書くようにしてるのだが、
偶然、同じ日に、男子の学校もの映画を二本観たので、
まとめて書くことにした。
その二つ、すごく両極端で、絶対に行きたくない学校と、今からでも入学したい学校だった。
書き終わった後、嫌な気持ちが心に残らないよう、
行きたくない学校の方から書きます。
「コロニアの子供たち」。
実話ベースとは思えない、おぞましい話だった。
学校の話というより、もっと大きな組織の中の一施設としての学校。
この組織が、形を変えたとは言え、現在も続いているのが驚きでしかない。
元ナチスということは、ストーリーにはあまり出てこないのだが、
ナチスの元で「一人の独裁者が自分の好き勝手にする」、
ということに憧れを持った人間が作ったのだとしたら、
これもナチスの罪のひとつだと言えるのかもしれない。
観てるのが辛くなるほど、理不尽な、閉ざされた社会は、
時々、滑稽とも思えるほど、外の人間社会とズレてしまっている。
その中で少年たちは、自分で考えることを放棄させられ、
「歌う人形」であることを求められているかのようだ。
社会のトップに立つ人間というのは、その社会に属する人が、
自分で考えることを放棄すれば、統治が楽になる、
と思い込む習性があるのだろうか。
「考えるのは自分だけ。あとの人間は自分の手足で、
自分に奉仕するためだけに存在する」。
だけど、そんな「自分の言うことが絶対」な社会は、
本人さえ、狂わせて、人間としての冷静な判断ができなくなるんじゃないか、
そんな風に思えてきた。
自分のためにも、自分に苦言を言ってくれる人間の存在はありがたいのだろう。
ああ、それ、当たり前のことやな。
この映画にあてられて、ワシも「何が当たり前」か、
わからんようになるところやった。
ほんまにおぞましいだけの映画だったけど、
人間には、こういう面がある、ということを
改めて知るために、観ておく映画だったと思う。
宗教であれ、国であれ、なんであれ、ひとつの価値観しか許さない、
という団体が「カルト」で、
それは、人間にとって、ものすごく不自然なことなのだと思う。
「ぼくたちの哲学教室」。
打って変わって、こちらは希望に満ちた学校のドキュメンタリー映画。
舞台は、北アイルランド紛争の煙がまだ漂ってるかのようなベルファストの町。
今でも町の中に「平和の壁」と呼ばれる、
カトリック系とプロテスタント系を分ける障壁がある。
そんな中で、カトリック系のこの男子校では、
子供たちを叱ったり、命令したりするのではなく、
徹底して、自分で考えることを、哲学として教えていく。
子供たちは、自分の衝動や怒りを言葉として整理していき、
そうすることで、自分とは違う意見のあることに気づき、
自分をコントロールすることを学んでいく。
元気な小学生くらいの子供たちだ。
自分のこと思い出しても、いさかいの種はなんぼでもある。
たとえ、スタートはじゃれ合いであったとしても。
その頃の自分の気持ちのディテールまでを思い出すことはできないけど、
あのとき、こんな考え方ができてたらなあ、
と思わずにはいられなかった。
このエルヴィス好きのお茶目な校長も、
そんな気持ちがあったのかもしれない。
力で解決してきた昔を悔いて、
自分で考える哲学を子どもたちに備え付けることで、
次の世代の平和なアイルランドの実現に夢を託しているのかもしれない。
エルヴィス好きってことで、
なんだか昔の話を観てる気になってたのだが、
コロナの話が出てきたことで、
「そうだった!今の話だったんや」と思い出した。
ほんま、この校長先生、魅力的で、
他の先生たちも、この校長先生の人柄と目指すところに惚れてるから、
この学校の教育方針はぶれないのだと思う。
子どもたちも、これからいろんなことがあるだろうけど、
こんな気持ちのいい大人が、世の中にはいることを思い出せば、
変な方向に行ってしまうブレーキの役割を少しは果たしてくれるような気がする。
「コロニアの子供たち」の学校も、この学校も、
一人の人間の考えのもとにできてるという意味では同じかもしれないけど、
かたや支配と罰と恐怖で、その考えに従わせる。
かたや自分で考える、という一点のルールを、
自分の生き方として受け入れることを目指し、その実践を訓練する。
その違いで、こんなにも、希望満ちた世界ができるのだ。
ほんまに教育って、大事やなあ。
個人としても、大事やけど、
国(というのはちょっと違うか)や、人間社会の将来にとって、
ほんまに大事なんやなあ、
と、このふたつの学校を比べて思った。
人間の進むべき方向として、どちらが理想的かは、
言うまでもないだろう。