映画「スケッチ・オブ・ミャーク」。
スケッチオブミャーク、やっと観れた。※ネタばれ注意!
歌が、人と生活と神と不可分に存在していた。
苦しい生活の救いを神に求め、豊穣に感謝し、
祖先との会話の窓口を、歌に求める。
観る前は、神事を中心にした記録映画だと思ってたのだが、
思ってた以上に、宮古の人々の生活を描いていた。
つまり、宮古という土地は、生活と神とが、
我々の想像以上に近く影響し合って存在してるのだと思う。
ドキュメンタリー映画とはいえ、ルポルタージュのように何かを検証したり、
結論を出したりするのではなく、
詩的ともいえるくらい、人と生活と風景と神事とを情緒的な編集で積み重ね、
理性よりは感情に訴えて、
観てる人に、宮古の歌と人と神との関係を感じさせ理解させてゆく。
ワシにも、頭にではなく、心や皮膚に伝わってきた。
いわば、この映画自体が、ワシのような人間に、
歌を媒介とする神との繋がりを復活させる神事のようにも思えた。
歌自体が、神と繋がるための手段であることを思えば、
この映画自体が歌なのかもしれない。
元来、内地でも人と歌の関係はこういうものだったのではないか。
歌は神との交信の手段であり、神の言葉を、人に伝える手段でもあった。
この映画が、和歌山県熊野を歩く久保田麻琴さんのシーンで始まっているのは
それを暗示しているのではないか。
そして、だからこそ、この映画に出てくる歌は、人に媚びることがない。
どの歌も凛としている。
人ではなく、神とのコミュニケーション手段だからだ。
人々が熱狂して夢中で踊るクイチャーも、盛り上がりを意識した音作りではなく、
宮古の人の中に元々あるエネルギーに火をつける役割なのだろう。
宮古に宮古の歌を演奏してくれる民謡酒場がないことに、不満だったのだが、
宮古の歌は観光客に聞かせるものではないからなのだということがわかった。
そういう意味でも、エンターテイメントとしても進化している沖縄本島の民謡とは、
存在理由が幾分違っているのかもしれない。
途中で出てくる小学生、譜久島雄太くん、ステージでの演奏中、歌詞を忘れて泣いてしまうが、
涙を拭いて、次の歌を始める姿は、この映画の中の一服の清涼剤であるともに、
絶滅しかかってる宮古の歌が再生して欲しい、という制作者の願いにも繋がっている気がする。
そして、最も印象的なシーンは、池間島の歌の名手、嵩原清さんと久保田麻琴さんのシーンだ。
若い頃、ほれぼれするくらいの美丈夫で鋼のような強い声で歌っていた嵩原さんの歌に
久保田さんが伴奏をつけ、入院中の嵩原さんに聞かせる。
最初は動かず、顔も向けなかった嵩原さんが、
演奏が進むうちに、感激して、動かない体を必死に動かし、
久保田さんの頭を抱きかかえる。
何度も、何度も。
嵩原さんは、映画公開を待たずに旅立たれたそうだ。
今は録音という手段があるが、
かつては、こうして人はいつかいなくなり、歌は残って行く、
人を媒介として、歌が伝わって行く、という形であったのだろう。
それを口伝というのだな、と改めて思った。
「ミャーク」は当然「宮古」を意味するが、
もうひとつ「現世」という意味もあるらしい。
「スケッチ・オブ・ミャーク」、「現世の風景」。
あちら側の風景まで想像させる、なんとも、美しいタイトルだ。