映画「実録・連合赤軍」。

そして、「実録・連合赤軍」。

あさま山荘事件そのものは朝霞自衛官殺人事件の半年後、
1972年2月に起こった事件なので、
当時、9歳だったワシも、鮮明に覚えている映像だ。
来る日も来る日も、同じ家がずっと放映されてて、
訳わからんまま、「何かすごいことが起こってるんやな」と思った記憶だけがある。

長じてから事件の概要は知ったものの、浅間山荘に至るまでの経緯があまりに凄惨で、
なかなか立ち入る気になれなかった事件だ。
たぶん、若松孝二さんが監督でなければ、この映画も観なかったかもしれない。

若松さんの表面は乾いているのに、その内に独特の湿気を含んだような映像は、
この事件を客観的な視点で、伝えるのには、ピッタリだ。

時代はマイ・バック・ページと重なる。
学生運動が安田講堂を頂点に求心力を失い、セクトが分かれて行き、
学内闘争から、地下に潜り、学外での武力闘争に走り始めた時代。
並行して中国では文化大革命が進行していた時代。
小さな集団での学外での武力闘争、
それは権力側から見れば、テロに他ならない。

元々は、学生らしい「なんとかこの国をいい方向に変えたい」という
思いから始まったのだろう。
しかし、山岳地帯で共同生活を送るようになってからは、
それは次第に、変質、先鋭化していく。
共産主義革命、武力革命を成し遂げるため、
各々に「総括」という名の自己変革を求める。
その総括は、方法論も個々に委ねられたものであるにも関わらず、
結果が正しいかどうかは、リーダーの論理で計られる。
リーダーの観念の世界を、他人に「自分で考えて到達せよ」なんて、
無理な話に決まってる。
そして、一人の犠牲者が出てからは、次の獲物を狙うように、
より残酷な方法で、より理不尽な理由で、仲間を殺していく。

その最後のあがきが、あさま山荘事件だ。
スタートラインと結果のなんと遠いことだろう。
なんと、逆方向なことだろう。

この事件の意味は、いまだに定まってないと思うが、
それまで、同情的だった人々、
マスコミや文化人、政治家、一般の人も、
若者の暴走を恐れ始め、結果、否定的になったことは否めないだろう。
そういう意味でも、目標と結果は、ある意味、正反対になったのだと思う。

しかし、これはどんな団体、政党にも言える話ではないか、と思った。
スタートラインでは「世の中をよくしたい」と思っていても、
同じ仲間に囲まれて、思想的に先鋭化していくにつれ、
一般の人々と乖離して、「世の中を悪くしてる」としか思えない行動を、
「これが正しい!」「これしか正しくない」と思いこんで、突き進んでしまう。

「悪を作り出すのは、正義だ」。
誰の言葉か忘れたが、それが間違っていようとどうしようと、
一つの価値だけが唯一の正義になれば、否応なく、滅ぼすべき「悪」は生まれる。
国単位であろうと、小集団であろうと、この構図は変わらない。

音楽は、ジム・オルーク!若松さんの映画音楽がやりたくて、
日本語を学び、日本に来たらしいです。
乾いてるけど狂気を孕んでるような映像とよく合ってて、
サントラあるんあら、欲しいなあ、と思いました。

こないだ知ったばかりの殿山泰司の言葉、
「軍隊という集団で人間性が喪失すれば、
当面の敵は、相手国の兵隊ではなくして、
味方の兵隊ということにあるのである。」を、
思い出しました。

坂井真紀のドラムカン風呂、が良かった。
あの映画の中で唯一、ホッとするシーンでした。

この映画で、こんなにコメント欄が盛り上がるとは。
(20240314記)

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