曽祖父、吉田暁三のこと。

おかんの父方の祖父、つまりワシの曽祖父、
吉田暁三は、1918年、36歳の若さで亡くなった。
ワシどころか、おかんも会ったことは、当然なく、若くして亡くなったということを、
ぼんやり聞かされてただけだった。

昨日、おかんから手紙が来た。
吉田暁三さんのことを調べたらしい。
さすがにおかんはワシより少し詳しくて、
会ったことないものの、死因がスペイン風邪だということは知ってて、
今回の騒動で、思い出し、詳しく知りたくなったらしい。
実家で見つけたのは、卒業証書や会社の辞令の類、
それらを基に、曽祖父の歴史を辿ると。

広島県出身で、東京外語大学に通い、22歳で卒業。
大学では、フランス語、漢文、國語、教育学を学び、
教員免許を取得したらしい。
並行して、学生時代に案内業の免許も取っていたようだ。
この案内業、旅行業者のようなものか?
でも大学の専攻とえらくちぐはぐやなあ、
思って調べると、通訳のような仕事を当時そう言ったらしい。
それなら、繋がってくるな。

教員免許を持っていたものの、教員にはならず、
北海道炭礦鐵道株式会社に就職したらしい。
これは、今のJR北海道と北海道炭礦汽船(現在は存在しない)に繋がる会社で、
東京の支社で重役付書記をしていたらしい。
案内業の特技を活かして、通訳として働いていたのだろうか。

その頃の姓は「堀」。
曽祖母の家は、広島の山の中の街道沿いの町で、
「吉田本店」という呉服屋を営んでいた。
ちなみに町の名前は「上下」。
町の北の川は日本海に注ぎ、南の川は瀬戸内海に注ぐ、
分水嶺の町なので、その名前になったらしい。
なかなか秀逸なネーミングだ。
なのでワシは、子供の頃ニュースで「大雨で上下線不通」とか聞くと、
おばあちゃんの家に行く電車のことだと思っていた。

写真について、少し解説を付け加えると、この真上の写真、
現在の吉田本店あとのギャラリー。
ワシが子供の頃、この呉服屋の一角でたばこ屋もやってて、
その店番をするのが楽しみだったのだが、
今も、自販機が、その名残をとどめてるようで、嬉しい。
自販機の手前のシャッターが、その頃、タバコを売ってたスペースだと思う。

話を戻すと、曽祖父は、東京の会社を辞め、その家に婿養子として入り、
広島の山の中に移り住んだらしい。
娘しかいない、大店の呉服屋が、地元近く出身のエリートを
後継として、婿に取ったということなのだろうか。

その後、曽祖父が呉服屋の仕事をやっていたのかどうかは、
もはやわからないそうだ。
しかし、短い人生の間に、ワシの祖父を長男として、立派に後継を作り、
スペイン風邪の流行に巻き込まれ、36年の生涯を閉じた。

曽祖母の記憶は、ワシにも少しだけある。
小さな優しいおばあちゃんだったが、
嫁である祖母には、大変厳しい人だったそうだ。
小さな息子たちを抱えたまま、旦那に逝かれて、
厳しくならざるをえない人生だったのかもしれない。

なんだか、まだピンときてない部分が多いが、
ワシの中にも暁三さんの血が1/8は流れているのだ。
ワシは語学は苦手であるものの、言葉への興味は、かなり強い。
それは、父親譲りとばかり思っていたが、
曽祖父から来たものもあるのかもしれない。

そして、鉄道への興味は、ワシの甥っ子にも繋がるのだが、
それも、もしかしたら、曽祖父の職歴に由来してるのかもしれない。

当たり前だが、明治の時代にも、ワシに繋がる人が、生きて、
いろいろ感じたり、考えたりしながら、悔しい気持ちを抱いて、
この世を去ったことを、少し感じられた、
ワシの「ファミリー・ヒストリー」であった。

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