橋本利七物語 第一話。(橋本家ファミリーヒストリー)

先週木曜日、自粛以来2年近く会えてなかった従姉弟二人と会う。
待ち合わせは、東山三条から少し入った粟田神社の鳥居前。
それほど、観光地でもないここに集まるのは、
3人に共通の理由が、この神社にあるからだった。

粟田神社に向かい、まずは三条京阪から歩き出すが、
よく通る道は面白くないので、
どうせなら、と一本ずれた道をゆく。
これなら粟田神社の鳥居にまっすぐ行ける道でもある。

途中、古川町商店街を横切る。
ここ、鋤田正義さんがデヴィッド・ボウイの写真撮ってたなあ、とか、
昔知恩院前でCMのロケした時、
商店街で乳母車押してたおばあちゃん、スカウトして、
急遽出てもらったなあ、とか、ポロポロ思い出す。
思い出のある町の路地歩きは楽しい。
三条通は何回も通ってるけど、思い出したことないもんなあ。

粟田神社に着き、従姉弟二人と合流、
まだ少し早いけど、そろそろ木々が色づき始めた京都、この季節に来れて良かった。
そんなに高いところまで登った気もしないが、
粟田神社からの眺めも良さげ。
まずは、お参りして、お目当てのもののある宝物殿にお邪魔する。(無料)

目当てのものは、この額。

実は、左から3つ目に書いてる「橋本利七」は、3人共通の祖父。
3人が生まれる前に祖父は逝去してて、会ったことはない。
この額をワシが、たまたまテレビ番組で、見たのが、ことの始まりである。

つまり、この利七さんの息子三人の子どもで、
歴史やルーツに興味ある三人が、
代表ってわけじゃないけど、それぞれ集まったようなのが、
この日の粟田神社訪問であった。
引用ブログにあるように、この額は狂言の茂山眞一さんが昭和十五年、
粟田神社で、狂言「粟田口」を演じたときの額である。

たまたま境内の掃除をしておられた神社の方に、
従兄弟が、詳しいことご存知か、聞いてくれた。
その方のお話によると、昭和十五年は、皇紀二千六百年にあたる。
ちょうど日中戦争の最中、戦意高揚、戦勝などを祈願して、洛中百社で、狂言が行われ、
能舞台があり、狂言「粟田口」とも縁のあるこの神社でも、奉納狂言が行われた。
この額は、その時のものであるという。
※「粟田口」は狂言の曲名のひとつ。粟田口(地名)には、刀工が多く住み、
粟田口は名刀の代名詞のようになっていた。それに関する狂言の曲名が粟田口。
粟田神社の中には、その刀工の一人と製鉄の神を祀る鍛冶神社がある。

橋本家は、その頃、羽振りがよくて、祖父がパトロンみたいな感じやったようなので、
附祝言の役割を、あてふってもらったのだろう。
ちなみに「附祝言」とは、一日の番組の終了後に添えられる短い謡らしい。
三人の父親は、その頃今の年齢で言えば、小〜中学生の頃、
もしかしたら三人とも、ここに、祖父の晴れ舞台を観に来てたのかもしれない。

神社の方に、橋本利七の孫と名乗ると、丁寧に話をしてくださって、
額の後ろまで見せて頂いた。
ワシは高所恐怖症なので、一番若い従兄弟に託したんやけど。

誓願文には、まさに戦争に向かう、その頃らしい言葉が並んでいる。
しかし、洛中百社とは、凄いなあ。
全部が能舞台でやったかどうかはわからんけど、
京都には狂言を奉納できるような神社が、そんなにあったってことか。
そんで、奉納する方も、百社となると、一年がかりくらいの大事業やったんやろな。
戦意高揚のためなんだろうけど、
皇紀二千六百年を記念する当時の盛り上がりは、相当なもんやったんやろう。

これが多分、当時狂言を奉納した能舞台。
舞台に展示してあるのは、粟田神社のお祭りの灯籠。
粟田大灯籠、面白そうやな。

この日は天気が目まぐるしく変わったけど、
粟田神社を見学してた時は、見上げれば秋晴れのいい空。
拝殿がくっきり浮かんでいた。
その拝殿の向こう、京都の北の方角が見渡せる展望台のようになっていた。

正面に平安神宮の大鳥居、その右に京都市京セラ美術館の煉瓦壁、
さらにその右には京都大学の時計台がうっすら見え、
吉田山、黒谷さん、真如堂の三重塔へと続く。
民家の屋根に遮られて大の字は見えないが、右大文字の山は見える。
遠くは北山が連なり、お話を聞くと、大文字の「妙法」も「舟形」も見えるらしい。
言うたら、ワシの大学時代の思い出が、
この視界に全部入っている。
こんな場所、なんで今まで知らんかったんやろ。
祖父が、この場所に導いてくれたのかなあ。
おじいちゃん、ありがとう。

紅葉もう少し色づいたら、もう一度来てみたい、ええ場所であった。

参道を降り、見つけておいたええ感じのカフェ、
パビリオンコートの「YAMANAKA CAFE」へ。

ここで、お互いの情報交換。
と言っても、ワシは何の用意もしてこなかったんやけど、
従姉弟たちは、ご先祖様の戒名のリスト、実家のある梅小路あたりの歴史的情報、
自作の系図など、すごい情報を、いろいろ用意してくれてた。
すんません!!ありがとうございます!!

そこから小一時間、お茶を飲みながら、資料を見て、橋本家の先祖の話に熱中する。
梅小路は、明治までは、日本の天文学の中心地のような場所だったらしい。
と言うのも、陰陽道の阿部晴明の子孫、土御門家が、
御一新で東京に移り住むまで、梅小路にいたから。
その土御門家は、応仁の乱を避けて、若狭の名田庄村に移住してたが、
徳川家康の命で京都に戻り、梅小路に邸宅を構えたらしい。
その邸宅の南側に祭場や祭壇があったらしい。
橋本家の実家のあった場所には、天文台の痕跡の石の遺物があった。
話を合わせると、その場所は、土御門家の邸宅の南側にあたるようで、
もしかしたら天文台の痕跡の石は、その祭場や祭壇の名残なのかもしれない。
明治で、土御門家が東京に行った後、橋本家がそこに移り住んだのであろうか。

その橋本家は、どうも藍の製造や販売で、財を成したらしい。
阿部家・土御門家との関係は、まだ不明だが、
なんだかんだで、元は土御門家のあった場所に家を構えたのであろう。
けど、その値打ちは、あまりわかっていなかったのか、
明治期、調査に訪れた京都大学の先生が、
天文学の歴史的に貴重な石を家に入るたたき石に使ってるのを見て、
激怒した、という話も伝わっている。
ご先祖様ったら!

で、ワシの祖父である橋本利七であるが、
どうも、なかなかの遊び人だったようだ。
スキー、テニスが趣味で、芸事も好きで、
その流れで、狂言の奉納も手伝ったんだろうし、
京都の映画にも、何やらいっちょ噛んでるらしい。
今も、実家近くに住む従兄弟によると、
地区の長老と話すると「利七さんの孫か!」と言って、驚かれるらしい。

利七、おもしれ〜〜〜!
「なんで今まで利七に興味持たなかったんやろう」と
従姉弟同士で話し合いながら、
これからも利七研究を進めていくことにした。
二人の話では、実家近くの神社や、お墓のあるお寺、
いろんなところに利七さんの痕跡は残っているようである。

またいずれ、この場で続編、利七物語第二話をお伝えいたします。
お楽しみに!
(誰が興味あんねん!) 

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