映画「チェチェンへようこそ─ゲイの粛清─」。

観ていて、沸々と怒りが湧いてくる映画だった。
チェチェンへようこそーゲイの粛清」。
ロシア連邦のチェチェン共和国で行われているゲイの粛清。
※ここで言うゲイは、男女問わず同性愛の人を指している。

予告編で「チェチェンにゲイはいない」と言い放つ髭の男こそ、
チェチェンの首長でプーチン子飼いのカディロフだ。
カディロフは、そう言うが、実際にはいる。
だけど、自分の言説を守るためには、
いないことにしなくてはならない。
で、行き着く結論は粛清だ。
それもただの粛清ではない。
拷問にかけ、仲間を密告させた上での。

チェチェンは、古い因習の残る地方で、
同性愛者だとわかったら、親からも殺されかけない状況だそうだ。
そして、程度の差こそあれ、
ロシア本国も決してウェルカムではない。
ましてやカディロフは子飼い。
命からがらチェチェンから脱出してロシアに訴えても、
すぐに捻り潰されてしまう。

この映画の公開はだいぶ前から決まっていたのだが、
こういう状況になってしまい、
反ロシアのプロパガンダ映画のように
捉えられかけてるかのしれない。
しかし、決して、そんなことはないと思う。
イデオロギーとか、主義とか、宗教とか関係なく、
ただ理不尽な殺戮、不当な弾圧を、
世界に訴えかける映画だと思う。

ワシ個人の意見になるかもしれんが、ワシは、
主義、社会体制、宗教、すべてのものに、
絶対的な正義など存在しないと考えている。
そういうもので正義を語ると、
それは必ず別の正義とぶつかる。
正義同士のぶつかり合いは、
意見の折れることがないので、
どちらかが倒れるまで、やり続けるしかない。
そして倒れたとしても、意見まで変えることはできない。

ただ一つ、この世に正義があるとするなら、
イデオロギーや、宗教や、人種や、性的嗜好で、
人が人を殺めたり、裁いたりするのは、間違いだ、
という正義だけじゃないか、と思う。
決して、人を弾圧する理由にはならない正義、
これが世界の向いていくべき方向なのではないか、と思う。

この映画には、最新の技術が使われているらしい。
30歳のグリシャ始め、顔が知られると身の危険に晒される人は、
ディープフェイクという技術で、
全部違う人の顔(在米市民有志)を貼り付けているそうだ。
少し表情がないなあ、と思ったけど、
あまりの状況で無表情になってるのかと思ってた。
それくらい自然に別の顔になっていた。

そのグリシャが勇気を出して、
モスクワで実態を告発した時、
グリシャという仮名から、本名のマキシム・ラプノフに戻る。
そして、顔も本来の顔に変化する。
そして、その顔には表情が溢れてくる。
しかし、その勇気の告発もロシア当局に握りつぶされてしまう。

この問題は、同性愛者だけの問題ではないと思う。
自分の考えに不都合な人、自分が不要だと思う人は排除していい、
という考えが成立するなら、その刃は、いつ誰に向けられるか分からない。
それが障害者に向かえば相模原事件になるだろうし、
自分以外のすべての人に向かえば、アメリカでしばしば起こる
銃乱射事件になるのだろう。

今回のウクライナの件、
プーチンがなぜ、ああいう手段に打って出たかは、あまり追求せずに、
ロシア=悪、ウクライナ=善、みたいな図式を
流布させようとしてるかに思える報道には違和感があるのだが、
ロシアが考え方とか体制の違う相手を戦争という手段で
抑え込もうとしていることは、完全に間違いだと思っている。
さっき言った刃が、ウクライナの無辜の民に向かっている状況は
許すことはできない。

この映画が、反ロシアのプロパガンダとして捉えられるのではなく、
すべての人が、弾圧や排除にさらされないための映画として機能することを
心から願う。

ちなみにチェチェンで人気歌手だったが、
性的嗜好が疑われて、2017年に行方不明になった
ゼリム・バカエフさんに行方は、今も杳として知れない。

この「チェチェンへようこそ」というタイトルは、
形は違えど、今、世界中がチェチェンのような場所になりつつある、
ということを暗示してるような気が、ふと、した。

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