人間は完全ではないのだから。映画「親愛なる同志たちへ」。
※ネタバレあり
「親愛なる同志たちへ」は、1962年6月1日〜3日にかけての物語。
つーことは、ワシの生まれるほんの二週間ちょいにあった、
旧ソビエトでの国家による住民殺害「ノボチェルカッスクの虐殺」をモチーフにしている。
その中で、国家に忠誠を誓う公務員女性が、その立場と母親の立場との合間で揺れ動く。
その母親に協力するKGB職員もまた、国家に対する不信感を募らせる、、。
もちろんソ連とロシアは別の国なのだが、
今の状況が状況だけに「だからロシアは、、」と言われかねない、映画ではあると思う。
けど、ワシは、この映画を、ソ連一国の問題としては捉えられなかった。
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ヒトラーのような一個人の独裁、戦前の日本やミャンマーのような軍部独裁、
ソ連や東アジアの数カ国のような一党独裁、
いずれの独裁にしろ、背景には人間への過信があるような気がしてならない。
「自分たちのやることに間違いはない」という過信。
もちろん人間のやることだから、必ず間違いは起こる。
いや間違いは言い過ぎか。
すべての未来を予想することは、神ならざる人間には無理なことなので、
予測の及ばない事態が起こることもある。
その時に、独裁は、修正する機能を持たない。
「やることに間違いがなく」、「間違いだと指摘する権力を持つ人がいない」からだ。
毛沢東が四害駆除運動でスズメを撲滅した結果、
蝗害が吹き荒れ、中国全土の米の収穫が激減したこととか、思い出す。
それでも、独裁者のいうことを聞かざるを得ない官僚、
越権で間違いを指摘すると、処分を免れない役人たちは、
自分で考えることを止め、
言われたことを忠実にこなすだけの存在に成り果てる。
ナチスのゲッペルスやアイヒマンのように。
この映画は、考えることを止めていた人が、
ちょっとしたきっかけで、
そのことに気づく映画なのではないか、という風に思いながら観ていたので、
終わり方に、すごく納得した。
きっと今のロシアの国中、軍隊の中にも、
疑問を持ち、どうしようもない無力感に襲われながら、
国家命令に準じてる人もいるのだろう。
個人が求めてないことを強制する国家は、
イデオロギーがどうであれ、
将来、この世から消滅して欲しい、とワシは思う。
人間の進化は、そのための道筋である、と信じたい。