映画「めんたいぴりり」。
また、あいつに泣かされた。
一週間のウチに2回も!
いじめっ子か!江口カンは。
つまり、映画「めんたいぴりり」を観に行ったのである。
テレビドラマも、関西ではやってなかったが、
ビデオ化されてから繰り返し観た。
めっちゃ好きなドラマだった。
それが、ほぼ同じキャストで映画化された。
監督も同じ江口カンさん。そら観に行くわな。
そう大した事件は起こらない。
基本的には、昭和30年代の
福岡の日常を描いてるだけだ。
なのに、ちゃんと緩急があって、
泣いて、笑える。それが素晴らしい。
出来事を大げさに拡大するでもなく、
斜めに見るわけでもなく、
毎日起こる小さいけど、
嬉しかったり、悲しかったりす出来事を、
明太子の創業家「ふくのや(と言う設定)」の
家族と従業員の目を通して、真っ直ぐに見つめている。
この物語に、最終的には悪人は一人もいない。
みんなが自分の幸せのために、懸命に生きている。
なのに、不幸や理不尽は起こる。
主人公の俊之は、それを見て見ぬ振りができない。
家族を巻き込んで怒られようと、なんとか助けようとする。
そこに打算はない。
人の気持ちを慮って、行動することに、
打算や権威への追従があれば、
それは忖度、
そういうものが一切なければ、
それは情けなのだろう。
忖度で動く社会は醜いが、
情けで動く社会は、美しい。
本当は誰もが、そんな社会で
生きたいと思っているのではないか。
劇場のあちこちから、大きな笑い声や、すすり泣く声が聞こえた。
もちろんワシも、目が腫れるほど泣き、涙流したまま笑った。
さすが大阪、藤山寛美や吉本新喜劇に鍛えられた町、
まだ、ちゃんと素直に泣いたり笑ったり
できるんやなあ、と少し驚いた。
最近は、そんな風に思えなくなってる一面もあるが、
ほんまは、大阪人も、そんな素直さを持ち合わせてるはずなのだ。
そして、この映画は、観ている間、
それを許してくれるのだ。
主人公と一緒に、素直に泣き笑うことを。
こんな風に劇場から泣き声や笑い声が
聞こえてきたのは、考えてみたら、寅さん以来かもしれない。
寅さんみたいに、
老いも若きも、男も女も、金持ちも貧乏人も、
みんな同じように、笑ったり泣いたりしながら、
この映画を観て欲しいなー。
そしたら、いろんな問題が
解決しそうな気がする。
終わって劇場を出るとき、
ふと自分がどこにいるかわからなくなった。
寅さんを正月ごとに観に行ってたあの時代?
今まで、映画でずっと観てた博多の町?
時間も空間も、あの映画が歪めてしまったが、
冷静になって、風景を見れば、
大阪駅の真上、ステーションシネマで、
終わったときには、
西の空が美しく焼けていた。
そして、散々映画で見せつけられたので、
口がもう明太子になってしまって、
大阪駅内にあるやまやの直営店に行くが、満員やった。
(ふくややなくて、すんません!
だってふくや、ないんやもん)
けど、諦めきれん。
日曜日やってるかどうか覚えてなかったが、
家の近くの明太子食べ放題の店に行ってみると、
やった!営業してた!!
めっちゃ「勝った!」って、
気分になったのだった。
あの映画、一種の飯テロですわ。
この話をFacebookにアップしたとき、
ふくやの社長さんからコメント頂きました。
まさに、この物語のモデルになった会社の社長!
というコメントだったので、転載させていただきます。
『「博多で明太子をつくりよる人は皆仲間やけん」ということで、
召し上がっていただいたのがどこの明太子でも大変うれしいです。
宣伝不足で認知されておりませんが、
実は梅田阪急の地下にひっそりとふくやが出店しておりますので、
またの機会によろしくお願いいたします。』
(20200819記)