映画「無聲 The Silent Forest」@テアトル梅田。

今、映画観終わって帰ってきたところなんやけど、
すごい衝撃だったので、その気持ちが薄れないうちに文字に落としておく。
今、ちょっとバランスを失うほど、衝撃受けてるので、
この文章、明日になったら、大幅に書き直すかもしれないけど、
今の気持ちをまとめておきたい。

映画は「無聲」。
台湾の聾学校で実際に起こった事件をモチーフにした映画らしい。
聾学校という社会的な弱者が生きる世界で、
生徒たちの間で、さらに弱いものを叩くような事件が、
明るみに出ることなく、進行している。
何度か白日の元にさらされるチャンスはあったのに、
それは世間体という蓋で覆われる。
弱いものがさらに弱いものを作り出し、苦しめる。
被害者は、より大きな被害を受けないために、加害者になる。
社会の構造って、いつもそうだ。
放っておくと、より弱いものに、被害がなだれ込んでいってしまう。
まさしく負のスパイラル。
その流れを逆転させられるのは、
放っておくと、負のスパイラルが発生するということを理解した上で、
それを断ち切る社会を作ることしかないのではないか。

ひとつのおふざけの延長に見えた事件は、
どんどん渦が大きくなり、
障がい者への社会の理解のなさ、いじめ、性的暴力、
未成年への性的強制、LGBTQ、
今の社会が抱えるさまざまな問題が、
聾学校という小さな社会で起こっていたことが見えてくる。
ここで起こってることは、今の社会で起こってることの縮図なのだろう。

制作者は、その矛盾に満ちた社会から目を背けることなく、
ひとつひとつ丹念に見つめる。
ストーリー的に「ちょっと雑かな?」と思うところもあるにはあったが、
社会問題に向ける眼差しは、ある意味、冷徹で細やかだと感じた。

出演者、ひとりひとりの描写も丹念で、演技も真に迫っている。
主人公の少年、少女も良かったけど、
ワシは主犯格の少年の葛藤が、すごく心に残った。

最後、少しホッとするシーンで終わりかけるのだが、
その刹那、また叩き落とすような切れ味鋭い余韻を残して、
映画は終わる。
どこかに安心を求める観客に
「これで終わったわけやないやろ!」と
現実を突きつける。
そうやなあ。一人一人の問題は、その個人や周りが支えあうことで、
傷は完全には癒えなくても、少し進むことはできるかもしれんけど、
それは社会が根本的に抱えてる問題の解決にはならんのやなあ。

帰り道、なんだか腹が立って仕方なかった。
けど、誰に?
加害者は、加害者であるまえに被害者でもある。
弱い人間や小さい人間は出てくるが、
本物の悪人は出てこない。
じゃあ、誰に。。。

もしかしたら、弱い人間が、より弱い人間を叩くように
作ってしまった神様にかもしれない。
だとしたら、そのスパイラルを逆転させるのは、
神の意志に反する行為なのか?
いや、それこそが、人間の叡智であり、
最終的に進化すべき目標地点なのではないか、
まだおさまらない腹を抱えながら、
そんなことを、今のところ考えている。

追伸:台湾映画、社会への真摯な向き合い方、衝撃、という意味では
すごい名作やと思ってる「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」を思い出した。

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