生まれながらの犯罪者はいない 作られるのだ 映画「ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言」。

一昨年亡くなったルーク・ホランド監督が最後に作ったドキュメンタリー映画
ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言」を観てきた。

まだ自分の中でまとまってないので、
まずは、その監督のメッセージと、それに続く予告編を。

ナチスの人類史上に残る犯罪について、
関わった程度こそ違え、加害者側への取材をベースに作られた、
今までになかったような視点のドキュメンタリー映画だった。

その人たちの中には、関わったことを悔やみきれない人もいるし、
ユダヤ人虐殺はともかく「思想の面では間違ってなかった」と言い放つ人もいた。
しかし、どの人にも、ナチスに関わったことは、大きなトラウマとして影を落としてる気がした。
そのことを悔いることで、トラウマを乗り越えようとしたり、
自分は、それほど関わってない、知らない、となかったことにしようとしたり、
「自分は間違ってなかった」と信じることで、生きようとしたり、
人によって、さまざまだが、「なんとか自分で処理しないと、生きていけない」という点では、
どの人も同じかもしれない、と思った。

観てるうちに思ったのは、
これはナチスの犯罪だけに限らない、
戦争だけにも限らない、
組織の為すことと個人との普遍的な問題なのかもしれない、ということだった。
多くの加害者の口から「あの時は、そうするしかなかった」というような発言があった。
ワシならどうするのだろう、あの頃のドイツに、アーリアンとして生きていて、
ナチスに反抗してまで、ユダヤ人の立場に立てただろうか。

それと同様に、例えば会社から命ぜられた、
犯罪行為とは言わないまでも、
「卑怯だ」と思われるような行為や、
自分の意に沿わない行為を強いられた時、
どうするだろうか。
いや、意に沿うも沿わないも、
そんなことを考える以前に、命ぜられたまま、
やってしまうことも多いのではないか。

それは会社に限らず、国家権力との関係に限らず、
いろんなところで起こりうる問題なのではないだろうか。
ひとことで言ってしまうと「同調圧力」なのだろうけど、
その言葉だけでは収まらない、為すすべのない力を感じてしまった。

ひとつ大きいのは、やはり教育、ということだろう。
1930年代に育った少年少女は、
何も考えるわけでもなく、人によっては制服のかっこよさに憧れて、
人によっては、活動内容が楽しくて、ナチスの少年・少女組織から、
ヒトラーユーゲントに吸い込まれていったと言う。
そんな幼い頃から刷り込まれてる人間に、
NOを言える判断が、どこで着くのだろう。
もし、どこかで思ったとしても、
その時、自分の意志でそのラインから外れられるものだろうか。

教育を、ひとつの方向に向かわそうとする政治には、
多かれ少なかれ、こういう狙いがあるのかもしれないという気がした。

映画を観てる間、ずっと「悪の凡庸さ」という言葉が、
頭から離れなかった。
大きな悪は、一人の力ではできない。
数限りない、こういった人々の判断力を無くした行為がないと成立しないのではないか。

そして、この悪習から人間を救う手立ても、
この辺りを知ることからしか、生まれない気もしている。

人間が組織になると、
時に考えられないくらいの大きな犯罪をしてしまう理由が、
この映画の中にあるような気がした。

「生まれながらの犯罪者はいない 作られるのだ」というのは、
映画の中に出てくるルーク・ホランド監督の言葉。
最期に、こんな考えさせられる映画を遺して下さってありがとうございます。
ルーク・ホランド監督のご冥福をお祈りします。

加害者を追ったドキュメンタリー映画ということで、
「アクト・オブ・キリング」を少し思い出した。

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