「沖縄”笑いの巨人”伝」〜照屋林助の歩んだ戦後〜

録画DVD棚卸し、次は、没後1年くらいの2006年制作された
「沖縄”笑いの巨人”伝」〜照屋林助の歩んだ戦後〜


これは会社の先輩 瀬戸口さんにもらったのかな?
もらったことも忘れてた。
もっと早く観とけば良かった。惜しいことをした。
大好きな人で、自伝や、いろんなまつわる本も読んでるので、
エピソード含め、知らないことはあんまりなかったが、
こうやって動画で1時間半くらいにまとめられると、
俯瞰から見られて、また新しい面白さがあった。

知らなかった、もしくは、忘れてたテルリンさんの言葉で、
ググっと来た言葉を採録する。


ー劇団潰して逃げた八重山で、八重山民謡に出会っての言葉ー
「自然のままのものが歌。CDやレコードはまがい物。
芸術作品と言うかもしれんが、芸術作品ほど、
やせ細って、飾られて、心のないものはない。
本物には芸術性はない。暮らししかない。
汗と涙と労働と、願い、心、そういうものしかない。」

ーコザ独立国を作って、国是?をチャンプラリズムとしたときの思いー
「あれもいい、これもいい、みんないい。」
「正義は諸刃の剣。正義は包丁と一緒、使いようによって、大変なことになる。」

ーコザ独立国創設の意図ー
「大真面目なごっこ。独立ごっこをしてる沖縄から日本国に向かって
『日本よ、汝はいつになったら独立できるのだ』と問いかけるのです。
人間や国家が、独り立つことを考えたいのです。」。

全然ルートは違ってるが、ワシが今、思ってることとなんと近いことか。
テーゲーであることに一所懸命、ひとつの価値観だけですべてを判断する怖さ、
いろんな視点の大切さ。
コザ独立国は、ダイバーシティなんて言葉が生まれるずっと前に、
遊びで、そういう国を作ろうとしたものだったんだな。
改めて、テルリンさんを尊敬するし、
今、本当に生きてて欲しい人だったな、と思った。

番組でも言ってたけど、晩年はコザのご自宅にステージを作って、
お客さんがひとりでもいたら、ライブをやってくださった。
ワシは2回ほど、見せて頂いたことがある。
確か一度は客、ワシひとりやったと思う。
番組でも紹介された、全部がコンパクトに収まったスーツケース、
糖尿病で指が動かないのでなんか棒をくっつけたりして
工夫したPA機器にも見覚えがあった。

「なんの話しようかね?リクエストある?」と聞かれ
小那覇舞天さんのお話をお願いしたら、
すごく喜んでくださって、ステージの予定時間30分くらい延長して、
そのあと、番組でも何回か出てた膨大な蔵書を見せて頂いて、
驚いた記憶がある。

番組の終盤に、テルリンさんが亡くなって、
半年後くらいの2005年10月に大阪ドームで開催された
琉球フェスティバルの映像がある。

実はワシは、このライブに行っていた。
しかし!ライブは一切覚えてない。
開場から、開演まで2時間近くあったので、
待ってる間に、完全に酩酊して、始まる頃には意識なかったのだ。
なので、今回初めて映像観た。
へー!えーライブやってんなあ。観たかったなあ(^_^;)

そして、このテルリンさんのお孫さんとは、昔からのお付き合いである。
テルリンさんのお父さん、つまり本人からして、ひいじいさんと同じ名前の林山くん。
那覇でアロハショップ「MOUNTAIN」をやっておられる。
そして、おじいさん大好きな林山くんは、
息子さんにまたおじいさんと同じ名前をつけた。
林山くんの息子さんはテルリンさんと同姓同名で、照屋林助くん。
めっちゃ男前で、国内外で活躍中のサーファーだ。
いろんなことを思い出せて、嬉しくなる番組やったなあ。
特にテルリンさんとの直接のやり取りは、今や、宝物のような思い出や。
番組に、ひとつだけ言わせてもらうと、
宮本亜門さんはおらん方が良かったんやないかなー。

コメント欄に、お孫さんの林山くんが、書き込んでくれてて面白いです。
(20220930記)

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