BBBムービー「《戦争と正義》破壊の自然史 / キエフ裁判」。
ウクライナ出身のセルゲイ・ロズニツァ監督のアーカイブドキュメンタリー、
「破壊の自然史」と「キエフ裁判」を続けて観た。
精神的に疲れまくったが、観ておかなければあかん映画やったと思う。
「破壊の自然史」は、第二次大戦の前後のドイツの国土が主な舞台。
のどかなヨーロッパの農村や、平和な町角に、
少しずつ、鉤十字が忍び込む。
鉤十字がある町や村で、人々は、楽しそうに笑いながら人生を謳歌している。
戦争は、開戦の前から始まってるんやなあ。
そして、開戦してしまうと、
誰にとっても、簡単には止められないものになってしまう。
戦争では、必ず命が失われる。
ひとつの命でも、それが戦争で失われたものなら、
「その命を無駄にしない」という大義名分ができてしまい、
また他の命が失われてゆく。
一度、回り始めた歯車は、止めるのが難しい。
そして、技術が進歩すればするほど、
失われる命の数は、途方もなくなる。
何かの番組で見たけど、今まで、戦争による死者が激増した時期というのが
三度あって、一度目は農耕技術が飛躍的に進歩した古代、
三度目は、大量破壊兵器が生まれた第一次世界大戦前、
二度目がびっくりしたのだが、活版印刷術が普及した直後らしい。
情報の恐ろしさを痛感する。
ましてや、その時とは比べ物にならないくらい、
情報のスピードも量も進歩した現代、
戦争は、本当に人類を滅亡させるかもしれない存在になっている気がする。
映画を観ててチャーチルの言葉を思い出した。
どんなしょうもない交渉でも
「交渉は戦争よりマシだ(Jaw jaw is better than war war.)」
つくづく、ほんまに、そうやなあ。
そして「キエフ裁判」。
ナチス関係者、15名のキエフでの裁判の様子が、ほぼ全編に亘って続く。
公式ホームページにあるように「悪の凡庸さ」が剥き出しになる。
ほんま戦争さえなければ、ナチスの命令さえなければ、
普通のおっさんたちやったんやろうなあ。
こういう戦争後の裁判見てるといつも思うのは、
なぜ敗戦国だけが裁判にかけられるのか、ということだ。
「それが戦争」と言ってしまえば、それまでなのだろうが、
戦勝国でも、残虐行為はゼロではないかもしれない。
そこもきちんと裁かないと、あかんような気がどうしてもしてしまう。
あと、少し思ったのは、もちろんナチスたちに罪はあるけど、
死刑の是非はともかく、
公開処刑という制度は、どうなんやろうか、と思う。
どんなことをした人間にも基本的人権を認めるべきなんやないかなあ。
残虐行為をした人だからと言って、
残虐に処刑するのでは、
自分たちも、その残虐行為をした人間と同じになってしまうんちゃうかなあ。
とか、ほんまいろんなこと考えさせられる二本の映画やった。