分断よりごちゃ混ぜを。映画「私のはなし 部落のはなし」。

休憩除いて3時間25分、ちょっと覚悟して「私のはなし 部落のはなし」を
観に行って来た。
覚悟を決めて、ほんまに良かったと思う。

今までの部落と部落問題の歴史、
そして2022年現在、どういう状況なのかを、
インタビューをベースに丁寧に語ってくれる映画やった。

テーマは日本特有の賎民制度なんだけど、
この問題通じて、世の中にある「差別」すべてに通じる問題を
語ろうとしてる映画なんやないか、と思った。

ディテールでは知らないこともたくさんあった。
たとえば戦時中、一時的に部落差別を解消しようという
動きがあったことは知らなかった。
けど、それは人道主義とかではなく、
戦争遂行のために、挙国一致、単一民族論を謳うためには、
部落差別が都合悪かったからに過ぎない。
結局、あの素晴らしい宣言を残した水平社は、
この動きの中に吸収されて、なくなってしまったようだ。

部落差別について「寝た子を起こす。」みたいな話はよく出てくる。
ザクっと言うと「部落差別を知らなければ、部落差別はなくなるのだから、
教育なんてしなければいい」という理屈だ。
そうなのだろうか。
差別の心は、誰もが持ち得てしまう心だ。
差別を受けてる人でさえ、
他の人間にレッテルを貼って差別することはありえる。
誰もが、その自分の中の差別と向き合い、
克服していくべき問題ではないか、と思う。
差別の心は、誰にでも忍び寄る。
一度克服したと思った人にも。
だから、常に意識を鍛え、自分に問いかけて、
アップデートしていかなあかんのやと、
今までも思ってたことを、この映画観て、
改めて、実感した。

話が差別一般のことに傾いてしまった。
この映画の主題である部落差別の話に戻そう。
「同和」という言葉の是非を問うシーンがあった。
これも、この映画の中で知ったのだが、
明治以降、部落の人、その人たちが住む地区の呼び方は、
実にあれこれ変わっている。
いくら言葉を変えようと、その本質が変わらない限り、
言葉は経年劣化のように差別用語になってしまうのかもしれない。

その本質を変えるためにどうすればいいのか。
明確な答えはないんだろうけど、
この映画に出てくる、箕面の北芝地区の現在の在り方に、
ひとつの答えがあるような気がした。
前にテレビのドキュメンタリーでも観たのだけど、
この地域には、もともとここに住んでいた人と、
移住して来た人が、一緒になって町おこしをしているらしい。
予告編に出てくる3人の青年も、その地域にずっと住んでる子と、
移住して来た人のごちゃ混ぜのようだ。
そうやって、接することで、
人は「あの人も、自分も本質的にはなにも変わらない」
ということを肌で感じ取っていくのだろう。

それに比べ、今も、見えない線が引かれて、
その地区に、住人以外は入れないようなところでは、
未だに解決の方法がわからない、みたいなことを言っていた。

そう単純なことで、全ての問題が解決するわけではないかもしれないけど、
やはり分断より、ごちゃ混ぜの方が、
今よりは、よくなるのではないか、そう思えてならなかった。
ふと、チャンプラリズムを提唱したてるりんさんを思い出した。

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