通過、なんてしなくていいんじゃない?BBBムービー「うかうかと終焉」。
「通過して行った人の言葉」というフレーズが、やたら響いた。
ワシは、まだあの頃をほんまの意味では通過してなくて、
あの辺に魂が、漂ってる気がする。
吉田寮とか行くと、妙に心が落ち着くのはそのせいなのだろうか。
ずっと、あの頃のまま生きていければ、幸せだし、
今の時代は、そういう生き方も可能なような気もした。
ストーリー的には、すごく良かったと思う。
モラトリアムって言葉ひとつでは、片付けられない、
モヤモヤした気持ちや、郷愁を描こうとしてて、
自分の「あの頃」を思い出してしまった。
だけど、全体的に「似てるけど、そうじゃない」を感じてしまっても、いた。
それはワシが個人的に吉田寮を知ってて、その辺に思い入れがあるからだろうか。
実際に吉田寮で撮った映画「ワンダーウォール」と比べると、
明らかにリアリティに欠けていた。
え?これって寮?民家の部屋貸しに見えちゃうけど?
あんな立派な縁側付きの座敷、寮にある?
もしあったとして、寮生出入り自由であんなに綺麗なまま、残ってる?
なのに、部屋ごとの入口は、文化住宅みたいな、鍵付きの立派なもの。
うーん、チグハグ。
それに、こんな民家のような建物が大学の所有で、
立ち退きを命じられるって、なんか不自然じゃない?
実際の吉田寮や熊野寮で撮影したり、
そこをモデルにセットを組んでたら、
もっと全然違う空気になっていただろうに。
そして、寮の周りの町の空気が、ほぼ感じられない。
町の空気が感じられてこその寮だと思うし、
寮が文化として、存在するためにも、
町の空気と混じり合うことは、
絶必のような気がする。
その辺は、元々舞台での芝居を映画に持って来たから
生まれたことなんかもしれんけど、
せっかく映画化するなら、
舞台では表現できなかった、その辺、
加えたら良かったんちゃうかな、思った。
そんなこともあって、映画全体のイメージとしては、
「関東の人が使う関西弁みたいな違和感」が終始付き纏っていた。
ストーリーは伝わるのだが、
「寮」という存在の持つ、文化的な側面や空気が感じられずに、
ほんま、勿体無い気がした。
役者さんの関西弁も、関西人からしたら、ちょっと聞き苦しいくらいだったので、
いっそ「京都」という縛りをなくした方が良かったんじゃないか、と思う。
あ、具体的には「京都」とは言ってないか。
だけど、京都ではないのに京都っぽい風景を撮ろうとしてる感じはあって、
それが余計に「じゃない」感を増してるんよなあ。
ストーリーはいいのだから、
京都ってしばりをなくした方が、ノイズが少なくて、映画に入り込みやすかった気がする。
もしくは、どうせ「京都」にするなら、もっと徹底的に「京都」にこだわってほしかった。
まあ、ワシが関西人で、あの大学出身で、吉田寮に今でもちょくちょく行ってる、
という立場なので、
どうしてもその辺の採点が辛口になってしまうのかもしれないが。
そういうことが気にならない人には、
いい青春映画、なのかもしれない。
けど、個人的には「もったいないなあ」と思う映画ではあった。