4月14日⑤映画「ブルーバイユー」。

出町商店街に向かったのは、
大阪で観逃した映画「ブルーバイユー」を観るためでした。
「ブルーバイユー」ゆーてもディズニーランドにあるレストランちゃいます。

ものごころ着くか着かんかの頃、
韓国からアメリカに養子として連れてこられた青年が、
シングルマザーと結婚して、
血のつながらない子どもとも、ほんまの親子以上の愛情で結ばれ、
自分の子どももできたのに、
ふとしたことで国外退去を命ぜられて、、
という家族愛をベースにアメリカに巣食う社会問題にスポット当てたええ映画でした。

けど、ちょい着くの早すぎたので、出町商店街を散歩します。
めっちゃかっこええデルタってスペースできてました。
そこで展示されてた写真、カッコよかったっす。
向かいには、吉田東商店街のタコとケンタローの支店も!

で、映画です。
めっちゃええ映画でした。
周りからすすり泣く声、聞こえてきました。
ワシも、泣かずにはおられんかったです。

多少やんちゃではあるけど、この町で育ち、
この町から出たこともほとんどなさそうで、
この町を愛し、家族を愛してる青年が、
国を出なければならない。
それが例え祖国の韓国だとしても、
ほとんど思い出のない場所なのに。

先日観た「親愛なる同志たちへ」のことも思い出しました。

国、というシステムへの疑問。
法律は、究極的には、全ての人を救うべきだけど、
まだまだ途中段階で、常に不備はある。
そういう不備から漏れてしまう可能性が高いのは、社会的弱者。
しかし、そういう人こそ、法律で救うべきなのではないか。
だからこそ、法律は、自分の不備を前提に、
漏れがあった時は、早急に、
その穴を防ぐ対策を超法規的に、
しなければならないのではないか、と思うのです。

法律の不備を責めるのではなく、不備があること前提で、
その不備が露呈した時に対応する術を
持っておかなくてはならないのではないか、
そう思ったのです。

黒人への差別に比べれば、あまり日本には伝わってこないけど、
東洋人への差別ってのも、アメリカには厳然とあるんやなあ。
だからこの主人公は、その隙間でもがき苦しむ。
社会的弱者として、生きていかざるを得ない。

実際、80年代から90年代にかけてのアメリカの養子縁組の不備で、
国外退去を命ぜられるという事件は、アメリカで起こってて、
それはアメリカの社会の縮図じゃないか、と感じました。

いろんな新しい視点を教えてくれる映画でした。
それにしても主演兼脚本兼監督のジャスティン・チョンさんの
存在感と演技が素晴らしかった。
そして子役のシドニー・コワルスケさんも、
複雑な感情を自然に演じてて、すげえ!思った。

最後は泣きながら観終わったのだけど、
この映画には、何か「この状況を変えてやる」「そのためにこの映画を作る」という
強い意志みたいなものを感じて、
そこがワシを強く惹きつけている気がします。

てなこと思いつつ、京都市バスで河原町に出て、阪急で帰ろうとしたら、
高瀬川に、また綺麗な八重桜が咲いてるのを見つけ(フランソア喫茶室の真前あたり)、
桜三昧の一日が終わったのでした。
帰りの阪急の中、うたた寝しながら、
「京都の桜は御室で終わる」ってのは、今年に限ったことかもしれんけど、
ちゃう気がするな、と少し思いました。

そもそも民主主義の行政って、なんのためにあるのか、って考えると、
住民が全員、幸せに生きられることが、究極の目的やと思うんですよねー。
現段階で、それが完全でないというのは仕方ないとしても、
そこに向けて、歩んで行くべきだと。

だとしたら、一番顧みなきゃいかんのは、
社会的な弱者、マイノリティなんですよね。
そこが民主主義の大原則と思われてる多数決と、なかなか相容れない。

だから自己責任なんて言葉を持ち出す奴が出てくる。
自分でどうにもできない人こそ救わなきゃ、と思います。

その辺、民主主義の矛盾を考えるべき時やと思うし、
その欠陥を分かりつつ、行政はルールより、
ルールの先にある、本来の目的のために、
寛容性を持って欲しいと思うんですよねー。
(20230420記)

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